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夜の関白・藤原顕隆(ふじわらのあきたか)

夜の関白・藤原顕隆

葉室家の祖で、白河院の近臣。
院の夜のお相手もし、院の人事決定にも深く関わった、藤原顕隆のイラストを描いてみました。

彼は、紫式部の夫・藤原宣孝の他の妻との間に出来た子供、隆光の子孫です。

父、参議大蔵卿藤原為房
母、美濃守藤原頼国女

1072年に誕生。
寛治二年(1088) 17歳で、院蔵人→内裏の六位蔵人、従五位下

若狭守、右衛門権佐、右少弁、左少弁、右中弁を歴任しました。

嘉承二年(1107)36歳で、弁・蔵人・衛門佐の三事兼帯の栄職に就きました。

内蔵頭、左中弁、近江守を歴任。

永久元年(1113)42歳、右大弁、蔵人頭

保安元年(1120)49歳、従三位に昇る。
11月、関白忠実の失脚籠居からは、、「天下の政、此の人の一言に在り」(『中右記』大治四年正月十五日条)といわれました。

保安三年(1122)51歳、参議、権中納言に。

大治三年(1128)57歳、「睡眠の病、飲水の病」に侵された。
大治四年(1129)58歳、死去。

多年弁官・蔵人の任にあって才腕を振るい、白河院執行別当として院中を取り仕切りました。

『今鏡』「すべらぎの中 第二 釣せぬ浦々」(講談社学術文庫版 上 p271)
において、

白河院が、顕隆に、「『弁官に任命しよう』とは思うが、漢詩を作らないではどうして(弁官に)なれようか。律詩を作れるものが弁官になるのだ」と言ったので、顕隆さんは、びっくりして漢詩文を愛好しました、

と書かれていました。

日記は、『顕隆卿記』です。散逸しました。もし残っていたら白河院政の全貌がわかっていたのに!と悔やまれます。

第宅は、五条第、三条西洞院第、晩年に八条堂。
葉室に営んだ山荘から、葉室家の家名が採られました。

彼は、頭もよく、色気もあったのではないかな~と想像して、落ち着いた瞳を持つ、泣きぼくろのある美形を想像してみました。


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