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小倉百人一首 第九十六番 入道前太政大臣(藤原/西園寺 公経)

「落花を詠みはべりける」

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで  ふりゆくものは わが身なりけり

(『新勅撰集』雑一・1052)

【通釈】

「落花について詠みました」

花を誘って散らす嵐の吹く庭に、雪の様に花びらが降り注いでいる・・・しかし、本当に古びていく(古る:ふる)のは花びらではなくて、我が身なのだなぁ・・・・

【語句】

*「花」:「桜の花」

*「花」、「嵐」共に擬人化されている。

*「雪ならで」:「雪ではなくて」落花を雪に見立てている。落花を雪に、反対に雪を落花に見立てる表現は『古今集』以来、多く見られる。

*「ふりゆく」:「(花びらが)降り行く」と「(我が身が)古り行く」との掛詞。

*「けり」:今はじめて気付いたという感動を表す。ここでは、自分の老いに初めて気付かされた気持ちを表す。

【本歌】

 よみ人しらず「古今集」  世の中にふりぬる物は津の国のながらの橋と我となりけり
【解説】桜が風に吹かれて舞い散る美しすぎて眺めていると魂があくがれでてしまう様な景色から一転、作者の心の内に引き入れられ、誰の上にも訪れる「老い」について考えさせられる、魂の中を見詰めるような緊張感を持った秀歌です。

この歌の出典・詠作年は不明との事なのですが、公経は承久の乱後、栄華を手にしてから少し経った後、貞応二年(1223)、53歳の時、人臣として最高の位である従一位をもらいました。私はこの歌がその年の春に詠まれたものと仮定してイラストを描きました。

公経は、承久の乱の時に命をかけて鎌倉方に内通し、乱後は幕府の後ろ盾によって朝廷で異例の出世を遂げ、位人臣を極めました。

きっと公経はその栄華に酔っていたでしょう。けれど、ふと自分の体の衰えを感じた時に、我に返り、庭で激しく散る桜を見て、命の儚さを感じ、この歌を詠んだ、と想像してみました。

実は定家が編纂したのは、「百人一首」と少し内容が違う、「百人秀歌」です。「百人一首」は定家の死後、息子の為家が一条帝皇后定子など三人を削って、その代わりに後鳥羽院と順徳院を加えて再編集したものです。

そして、定家の編纂した「百人秀歌」の最後はこの歌で締めくくられていました。定家の生活が晩年少しましになったのは、妻の弟の公経さんのおかげもあったのかもしれません。

絵についてですが、50代にしては、少し目を可愛く描きすぎてしまったかもしれません・・。(^_^;) いくら肖像画(『中殿御会図』のもの。旧版『人物叢書 藤原定家』247頁で見る事ができます)が可愛く描かれていたとはいえ・・。

 
【主な派生歌】

吹きさそふ嵐の庭の花よりもわが身世にふる春ぞつもれる(正徹)

一とせの残る日数は雪ならでつもりもあへず年ぞくれける(後柏原天皇)

【略歴】

<基本データ>
*鎌倉時代初期・中期の公卿  *生没年:承安元年(1171)~寛元二年(1244) *通称:一条相国、西園寺入道太政大臣など 
*太政大臣公季の子孫(閑院流) *父:内大臣・実宗 *母:持明院・基家女(藤原頼宗流) *平頼盛(※1)の外孫 

*子:綸子(九条道家室)、実氏(太政大臣)、実有(権大納言)、実雄(左大臣)ほか。 *妻:一条全子(一条能保と源頼朝の妹との娘)、西園寺実材(さいおんじさねき)母 

*九条良経とは、全子の姉妹を通じて相婿関係 *藤原定家は姉の夫 *勅撰集歌人 *新三十六歌仙

※1:平頼盛は、平治の乱の折、源頼朝の助命を平清盛に嘆願した池禅尼の子供。

詳しい伝記はこちらをクリック。

【装束について】かさねは白躑躅。薄紫の色が高貴で知的な彼に似合うと思い、着せました。袍の文様は、太政大臣の彼を描いたつもりなので、雲鶴。指貫は、鳥襷を使用しました。文様は全て自作です。

 

参考:千人万首「西園寺公経」、国史大辞典「西園寺公経」

2006.9.7. 葉つき みかん


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