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小倉百人一首 第七十一番 大納言 経信(だいなごん つねのぶ)(源経信)

「師賢(もろかた)朝臣の、梅津の山里に人々まかりて、『田家ノ秋風』といへる事をよめる」 

夕(ゆふ)されば 門田(かどた)の稲葉(いなば) おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く 
『金葉集』(秋・173)
【通釈】
源師賢の、梅津の別荘に人々が行き、「田園の家と秋風」という題で詠みました。

「夕方になると、門前の田の稲葉を、さやさやと音をさせて、芦葺きの山荘に風が吹き渡ってくる事だ」

<語句>
*師賢朝臣(もろかたあそん):源師賢(生没年:一〇三五~一〇八一 享年:四十七歳)。宇多源氏、後拾遺集初出の勅撰歌人。源資通の息子。
延久五年(一〇七三)後三条院の住吉詣の時、御船の中であった管弦の遊びで、拍子をつとめる。経信は琵琶を弾いた。

*梅津:京都市右京区。桂川の左岸一帯の地。風光明媚で当時貴族の別荘地。

*「夕されば」:「さる=移動する、移り変わる」→夕方になると。
*「門田」:屋敷の周り、特に門の前にある田地。耕作に最適な所から古くから重要視され、既に『万葉集』に用例が見える。
*「おとづれて」:「人の元を訪ねる、音を立てる」
*「芦のまろや」:芦で葺いた粗末な仮小屋。→ここでは、源師賢の山荘を指す。
(管理人推測)当時流行の、田園趣味の発露として、師賢の山荘を芦葺きの粗末な小屋と見立てて詠んだのでは?

<解説>
秋の夕暮れ、橙色の優しい光の中、田んぼに囲まれた風雅な山荘の中、気の会う仲間たちと共に過ごす上品な宴。さやさやと門前の稲穂が音を立て、すぅっと優しい風が山荘の中に吹き込んでくる様子が目に浮かぶような、心休まる歌です。
経信の優しい心が伝わってくるような歌で、疲れた心に癒しを与えます。
管理人は、「門田の稲葉」や「芦のまろ屋」の音の響きが好きで、何度も頭の中でこの歌をころがしてしまいます。

<ミニストーリー>

平安時代も後期にさしかかった、承暦二年(一〇七八)、九月。
六十三歳の参議・源経信(みなもとのつねのぶ)は、京の西の郊外を流れている桂川の西岸、梅津の里にある源師賢(みなもとのもろかた)の別荘を訪れていた。

初秋の梅津は川沿いから山荘の門前に至るまで田んぼが広がり、稲穂がたわわに実っていた。高い澄み切った空の下、何もかもが黄金色に輝いて見えた。

経信は門に入ろうとして、すっと後を振り向き、稲穂に反射する日光に目を細めた。
体格は中肉中背、容貌は風雅の世界に遊んで来たからか、日々の公務に疲れた印象は見えず、実際の年よりいくぶんは若く見える。豊かな頬には細かな皺が刻まれているが、それより黒水晶の様な知的な光を放つ大きな目が印象的だ。

経信は門の中に入ると、あるじの師賢が温かく出迎えた。
師賢は四十四歳の男盛り。細面の顔に、秀でた額、男らしい太い眉の下に、切れ長の黒い目が光っている。彼は歌人でもあり、経信の管弦仲間でもある。五年前の延久五年(一〇七三)、後三条院の住吉行幸の御船で、共に管弦の演奏を受け持ってから、経信と師賢達は親交を深めてきた。

師賢は、源資通(琵琶の名手で、経信の琵琶の師。『更級日記』で菅原孝標女と話した。)の息子。経信と師賢の先祖は、ともに敦実親王だ。経信の祖父・源重信と師賢の曽々祖父・源雅信(源倫子の父。藤原道長の舅)が敦実親王の息子達だったのだ。それだからか、二人は顔かたちが全く違うのに、身にまとう雰囲気に似通った物を持っていた。

経信が邸の奥に入ると、師賢の弟である政長が笛を吹きながら待っていた。政長も管弦・特に笛に堪能で、二人と同様、後三条院の住吉行幸で管弦を受け持った。

しばらくして、人数が集まったので、宴が始まり、女房達が酒や肴を運んで来た。

(今日の宴は、師賢が私を慰めるために開いてくれたものだ―)
経信はそう思っている。

そう、つい一月ほど前、経信は勅撰集『後拾遺和歌集』の撰者が、主上(白河天皇)の側近である若年の蔵人頭・藤原通俊に命じられたことを知り、どうしようもない絶望を感じていた。
経信は、若年であった後冷泉の帝の御代から、和歌・漢詩・管弦に堪能であるとの宮廷人の評判を得ていた。主上が企画された大堰川での行幸における遊びでも、経信が遅参した事で主上は機嫌を損ねたそうであるから、主上も自分の才能を認めてくださっていると思っていた。
だから、主上が、花山の帝が寛弘二年(一〇〇五)頃に完成させた『拾遺集』以降、しばらく絶えていた勅撰集編纂事業を始めるという話が具体化したとき、宮廷の人々も、経信自身も、経信が当然撰者に選ばれると思っていた。

経信は、自分が選者から外されたことで落胆すると同時に、撰者としての通俊の才能に危惧を抱き、これからの和歌の進む道がおかしな方向に行かないか、偏った感覚の歌ばかりがもてはやされやしないか、不安になっていた。

それは師賢も同じ思いだったようで、ある日内裏の廊下で会った際に、いつか自分の山荘でゆっくりお話がしたい・・・と経信を誘ったのだった。その時、経信は自分より二十歳近くも年下の友の気遣いと優しさに胸を熱くした。


―宴の場では、酒も進み、和やかな雰囲気になってきた。
風雅を解するものが集まり、酒が入ると、自然に歌の会となる。

いくつか題を出しているうちに日が落ちてきて、周りの景色が橙色に染まってきた。
次は、「田家ノ秋風」という題となった。ところが、いつもはすらすらと歌の出る経信、酒が回ってしまったのか、なかなか詠い出しが決まらない。

師賢は、微笑んで、「何かお弾きください」と琵琶を経信に渡した。
経信は、ゆるゆると琵琶を弾き出した。当代一の琵琶の名手である経信の見事な音色が山荘に響き渡った。

と、あの後三条院の住吉詣の時の様に、自然と師賢は拍子を取り、政長は笛を合わせはじめた。経信には、妙なる音色に誘われ、音楽の精が山荘に訪れたように思われた。

と、管弦の音の合間を縫って、さやさやと小柴垣の外の稲穂が揺れる音がして、すっと経信の頬を涼やかな風が通り過ぎていった。
ふっと経信の酔いが醒めた。
「夕されば…」

「夕(ゆふ)されば 門田(かどた)の稲葉(いなば) おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く」

「夕されば・・・」師賢と政長はゆっくりと味わう様に、同時にその歌を繰り返した。その間に、経信は歌を懐紙に書き付けた。

経信は、自分の歌の才能を改めて確信した。
『後拾遺集』が間違っていると感じたならば、自分の感覚に従って論難する文章を書いて発表すればいい。きっと宮廷の人々は私の意見を尊重してくれる。

経信は二人に満足そうな表情で話しかけた。
「さぁ、合奏を続けようか」

師賢と政長はゆっくりと微笑んだ。

―その後、藤原通俊は、『後拾遺集』を選ぶ際には、経信に内覧を願って意見を聞いた。
発表後に経信が『難後拾遺』を書いた後には、経信の考えに従って改訂版の『後拾遺集』を発表し直した。

(終)

参考文献:『平安時代史事典』「源経信」、「千人万首 源経信」

2010.3.1.  葉つき みかん  


<略歴>

源 経信(みなもとのつねのぶ)

<基本データ>

*平安時代後期の官人、歌人。琵琶奏者。  *号:帥大納言、桂大納言
*生没年:長和五年(一〇一六)~永長二年(一〇九七) 享年:八十二歳
*祖父:六条右大臣・源重信(源雅信弟)
*父:宇多源氏・民部卿・源道方(琵琶名手) *母:光孝源氏・播磨守・源国盛女(琵琶名手、勅撰歌人)
*妻:土佐守・源貞亮女(母の同族) *子:基綱、俊頼
*若い頃の年上の恋人:出羽弁(歌人・『栄花物語』後半の作者?) *親交有:伊勢大輔、相模 
*琵琶の師:源資通(『十訓抄』十ノ七十より) *桂流琵琶の祖 *弟子:後二条関白・藤原師通『文机談』
*歌論書『難後拾遺』 *家集『経信集』(他撰) *日記『帥記』 
*博学多才。詩歌管弦、特に琵琶に優れた。→『十訓抄』に「三船才」の逸話、『胡琴教録』に琵琶の逸話。


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参考文献:『平安時代史事典』「源経信」、「千人万首 源経信」
2010.3.1.  葉つき みかん  

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