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小倉百人一首 第六十八番 三条院

「例ならずおはしまして、位など去らむと思しめしけるころ、月の明かりけるを御覧じて」

心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな

 『後拾遺集・雑一・860』

【通釈】「(眼の)ご病気にお成りになって、『譲位をしよう』とお思いになられました頃、月が明るいのをご覧になって」

心ならずもこの辛い世に生き長らえていたならば、きっと恋しく思うに違いない、この夜中の月だなぁ・・・

【語釈】「心にもあらで」:「自分の本意ではなく」

「うき世」:「憂き世、辛いこの世」

「恋しかるべき」:「べき=きっと/必ず~だろう」

「夜半」:「夜中、夜更け」

「かな」:詠嘆の終助詞「~だなぁ」

【解説】

この歌が詠まれた場面は、『栄花物語』に書かれています。その場面を抜き出します。

「しはすの十余日の月いみじう明きに、上の御局にて、宮の御前に申させ給、

心にも・・・ 中宮の御返し(欠落)」

(十二月の十何日の月がとても明るい時に、上の御局において、中宮妍子におっしゃった。)

これによると、三条院は退位への決意を固めて、十二月、冬の厳しい寒さの中、満月に近い明るい月を見て、この歌を中宮妍子に詠みかけました。

当時、三条院が取巻かれていた状況について説明します。

二十五年の長い皇太子時代を経て即位したものの、政治は中宮・妍子の父である左大臣道長に牛耳られ、若い頃から濃やかな愛情を育み、何人も子供を儲けた妃・セイ子(小一条系・大納言・済時(なりとき)女)を皇后にしようとしても、道長に妨害され、惨めな状況で何とか立后の儀式を終わらせました。

その後、妍子が懐妊し、三条帝と道長の関係は好転するかと思われましたが、その結果、皇女・禎子内親王が生まれたため、道長は三条帝との融和政策に見切りを付けました。

五年の在位中に二度も内裏が全焼し、同時に眼病がひどくなり政務に支障が出ていた状況を利用して、道長は自分の孫である皇太子・敦成親王(一条天皇と娘・彰子との長男)への譲位を迫っていました。

この歌を詠んだ翌年、天皇は次の皇太子にセイ子との間の長男・敦明親王の立太子を条件に退位をしました。敦明親王の立太子の為に道長との激しい攻防戦が繰り広げられたのですが、その戦いの直前、三条天皇の静かな決意と意思の力が伝わってくる歌です。

眼病により衰えた視力に、月の光は優しく、きっと三条帝は当時「月を見るのは忌むべき事」と言われていたにもかかわらず、じっと見つめながら、傍らにいる中宮妍子に、この歌を詠みかけたのでしょう。妍子はそれに対して返歌をしたそうですが、『栄花』本文ではその部分が欠落しています。夫と父、二人の板ばさみになり、切ない思いをしていた彼女が一体どのような返歌をしたのか、非常に気になります。

イラストでは、月の光を浴びながら歌を詠む三条帝の後ろに、悲しげな心配そうな表情をしている中宮妍子を描きました。 構図は『源氏物語絵巻』の「橋姫」で宇治の姫君たちが月を招き寄せる場面を参考にしました。

【略歴】

<基本データ>

*第六十七代天皇(位:1011~1016) *諱:居貞(いやさだ) *生没年:貞元元年(976)~寛仁元年(1017) *父:冷泉天皇 *母:藤原超子(藤原兼家女) *皇后:藤原セイ(女+成)子(大納言・済時女) *中宮:藤原妍子(藤原道長女) *他の妃達:藤原原子(道隆女)、綏子(兼家女) *子:小一条院・敦明親王、陽明門院・禎子(後朱雀帝皇后・後三条天皇母)、当子内親王(元斎宮・藤原道雅恋人)

詳しい伝記はここをクリック 

【参考歌】作者不詳「古今和歌六帖」

心にもあらでうきよにすみのえのきしとはなみにぬるる袖かな


2006.6.25. 葉つき みかん

参考史料:千人万首「三条天皇」、平安時代史事典「三条天皇」、

岩波古典文学大系『栄花物語 上』、講談社学術文庫『大鏡』

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