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小倉百人一首 第六十六番 前大僧正 行尊(さきのだいそうじょう ぎょうそん)

「大峰にて思ひがけず桜の花を見て詠める」(『金葉集』の詞書)
「思ひかけぬ山なかに、まだつぼみたるもまじりて咲きてはべりしを、風に散りしかば」
「風に吹き折れても、なほめでたく咲きてはべりしかば」(上二つ、『行尊大僧正集』の詞書)


もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし
『金葉集・雑上・521』
【通釈】
「大峰山にて、思いがけず桜の花を見て詠みました」(『金葉集』)
「まさか桜があるとは思えないほどの山中に、まだつぼみのままの桜も混じって咲いていましたが、それが強い風によって散ってしまっていたので」
「(桜が)風に吹き折れてしまっていても、まだ美しく咲いていましたので」(『行尊大僧正集』)

「私がお前をしみじみと愛しく思うように、お前も私の事を同じ様に思ってくれ、山桜よ。お前以外に私の心を知る人はいないのだから。」

<語句>
*「大峰」:奈良県南部に南北に連なる大峰山脈の通称。最高峰は八剣山(標高1915m)釈迦が岳、大日岳、地蔵岳などがそびえ、古来修験者登山が盛ん。霊場と参詣道は、2004年世界遺産に登録された。(百科事典マイペディア)

※「修験道」:日本古来の山岳信仰と、仏教の密教の呪法、道教などが結びついて平安中期に成立した宗教。その行者を修験者または山伏という。
天武天皇の頃に活躍した役小角(えんのおづぬ)を初祖とする。霊験を得るための山中の修行と加持・祈祷・呪術儀礼を主とする。
平安中期には密教系の行者の中から、山々の回峰修行により霊力を強めようとする験者(げんざ)が台頭した。(→行尊は、この験者に当たる。)
室町期には、真言系の三宝院流(当山派)と天台系の聖護院流(本山派)の二派に分かれた。
ともに、吉野・金峯・大峰・熊野一帯を根本道場とした。
(大辞泉・マイペディア併用)

*「もろともに」:「いっしょに。」
*「あはれ」:もともと感動詞「あ」「はれ」が結合して産まれた語。しみじみと身にしみいる感動を表す。
*「山桜」:「山桜よ」と、山桜を擬人化して呼びかけている。
*「花」:「山桜」のこと。
*「知る人」:ここでは「自分(行尊)の心を知る人、心の通い合う人、共感しあえる人」の意味で使われている。



<解説>
高雅な調べを持ちつつ、優しさが感じられる歌です。
この歌は、行尊が十六歳から行った厳しい大峰山での苦行の間、思いもかけず山桜を見つけた時に詠まれた歌です。
その山桜は風に吹き折られながらも、ひっそりと美しい花を咲かせていました。

行尊は、三条院(父方の曽祖父)、小一条院(敦明親王、父方の祖父)、藤原頼宗(母方の曽祖父)の高貴な血を引きながら、父・源基平が早世したせいで、宮廷社会の片隅でひっそりと暮らさねばならない自分たちの運命を風に吹き折られた桜に重ねたのかもしれません。そして風に吹き折られた桜がそれでも誇り高く美しく咲いている姿を見て、「自分たちも辛い状況にもめげずに強く誇りを失わずに生きよう・・・。」という気持ちを抱いたのかもしれません。

ちなみに、『行尊大僧正集』では、この歌は三首の連作の最後に置かれています。以下、引用します。

************************************************
山の中に桜の咲きたるに、つぼみたるをさへ吹き散らされて侍りしを見て

 「山桜 いつを盛りと なくしても あらしに身をも まかせつるかな」

風に吹き折られて、なほをかしく咲きたるを

 「折りふせて 後さへ匂ふ 山桜 あはれ知れらん 人に見せばや」
 「もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし」

************************************************


<ミニストーリー>
平安時代も後期に差し掛かる頃の、承保元年(一〇七四)の早春、奈良・大峰山を、白い行者装束の僧が駆け抜けていった。

年は二十歳頃、頭の上には笠、白の浄衣に袈裟をつけ、脛巾(はばき)を当て、草履を履き、錫杖と斧を携えている。時おり、堂の前に立ち止まり、数珠を押しもみながら真言をつぶやき、また走り始める。

僧の容貌は白いきめ細かい肌に上品な顔立ち、瞳は黒目がちで聡明な雰囲気を漂わせ、彼が高貴の出である事を物語っている。しかし昨年秋からの山篭りですっかり頬はこけ、体には凄絶な修行を行う者だけから発せられる鋭いエネルギーがみなぎっている。

彼の名は行尊。
参議・源基平の第三子で、母は、藤原隆家の孫娘。
十歳の時に父が亡くなってから、祖母の姉妹である麗景殿女御・藤原延子(後朱雀院女御)の猶子となり、庇護を受けた。
十二歳に三井寺で出家してから父の菩提を弔うため、仏道修行一筋に努めて来た。

十六歳になり、師・頼豪阿闍梨の後を慕い、熊野・大峰で山岳修行を始めた。
その頃、後三条天皇の第一皇女・一品宮聡子内親王のお話し相手として宮仕えをしている八歳年上の同母姉・基子が帝の御寵愛を受けているという噂を聞いた。

基子は懐妊し、延久二年(一〇七〇)、実仁親王を出産した。天皇はお喜びになり、二年後の延久二年(一〇七二)に今上の白河天皇に譲位する際に、実仁親王を皇太弟とした。

―世間は、後三条院は長年藤原摂関家に圧迫されていたため、白河天皇の次の御代には摂関家出身でない女性を母とする皇子を望んだのだ―と噂をしていたが、行尊には、後三条院は自分の体の変調に気づいておられて、姉の今後を心配して実仁親王を皇太弟に据えたのだと思われた。

そこまで姉に細やかな愛情を注いで下さる後三条院に感謝の気持ちを感じた。しかし、即位と同時に自身の子供を皇位につけることを父に否定された白河帝の気持ちはどれだけ傷ついておられることか、と行尊は甥の立坊を素直に喜ぶ事はできなかった。

果たして昨年の延久四年(一〇七二)、まだ四十代の後三条院は姉を残して崩御された。姉と聡子内親王はすぐさま出家した。
行尊たち一族には、三歳の皇太弟・実仁親王と産まれたばかりの乳飲み子・輔仁親王が残された。

院が崩御されたからといって、自分たち一族には全く希望の光が消えたという事はなかった。
兄・季宗が父代わりに自分たち兄弟と親王兄弟を守るために奔走してくれているし、後三条院の人柄を尊敬申し上げていた関白・藤原教通殿とご息女の小野皇太后・歓子様が親王達のご後見をしてくださっている。
今上帝は父帝のご遺言を守り、異母弟達を尊重しておられる。

しかし、行尊の心配したように、異母弟達を尊重される一方で、今上帝は中宮・賢子様との間に皇子を儲けようと熱心に中宮様をご寵愛されておられる。まだ皇子のご誕生はないけれど、中宮様との間で皇子がお生まれになれば、実仁親王様との摩擦は避けられない。

(―このままでは、実仁親王様は我が祖父・小一条院(敦明親王)の様に東宮辞退を強制されかねない―)
(そんな事態になった時に、私は出来るだけのお祈りをして、姉と実仁親王様たちをお守りしたい―)

「その為には強い法力をつけなくては―」

行尊は疲れで鈍ってきた足の動きに活を入れるように、また足早に走り出した。

この山での冬越えは辛かった。洞窟にこもって真言を唱えていても、凍るような冷気と寂しさに耐えかね、思わず洞窟の外に大声を出して走り出していきそうになった。ただ、外に出れば雪の中、遭難して死ぬ事は確実。実際、一緒に籠っていた法友が外に出て何日も帰ってこなかった事があった。他の僧達は、その者は死んだと噂していたが、十日後に帰ってきた。
行尊は嬉しさの余り、歌を詠んだ。だが、帰ってくる例はまれであり、実際は多くの僧が命を落としていた。

(ここで死んではいけない。死んでしまっては親王様をお守りする事はできない。―御仏よ、どうか私にもっと強い意志と法力をお与えください―)

ふと行尊の目の前に視界が開けた。
そこは岩肌ばかりの大峰の中にはまれな平地で、何本か山桜の樹が立っていた。
山桜は咲いている花はもちろん、つぼみのままの花まで無残にも早春の風に吹き散らされて、枝も折れて垂れ下がっていた。

―だがしかし、山桜は風に吹き散らされても誇り高く、白い花を咲かせていた。―

行尊はその姿に、庇護者を次々失いつつも、宮廷の隅で誇り高く生きている姉と親王たちを重ね、深い山の中でぼろぼろになりながらも自分を鍛錬し、何かをつかもうと努力する自分自身を重ねた。

そして思わず口から歌がこぼれ出てきた―
「もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人ぞなき」

(こんなちっぽけな私だけれども、山桜よ、どうか見守っていてくれ。)

行尊はしばらく桜を眺め、奥歯をぐっと噛み締め、また山の中に走って行った。

(終)

2009.11.7  葉つき みかん  

<略歴>

行尊(ぎょうそん)

<基本データ>

*平安時代中期の高僧。大僧正。天台座主。鳥羽天皇護持僧。 *通称:平等院僧正
*生没年:天喜三年(一〇五五)~長承四年(一一三五) 享年:八十一歳  
*父:参議 源基平(父:小一条院 母:藤原頼宗女) *母:藤原頼良女(頼良は藤原隆家男)
*麗景殿女御・延子(後朱雀天皇女御)の猶子となり、厚い庇護を受ける。
*同母姉:源基子(後三条天皇女御・実仁親王・輔仁親王母) *同母兄:源季宗 *同母弟:源行宗(崇徳天皇の歌仲間・兵衛佐養父)
*『百人一首』 *『行尊大僧正集』
*親交を持った人々:静円(父:藤原教通 母:小式部内侍。和歌の師・密教修験の師として尊敬)、公円(権中納言経家男)、藤原仲実(金葉歌人)、加賀左衛門(聡子内親王家女房)、藤原顕季、藤原顕輔(二人は、弟・行宗の仲介で)

*晩年は、藤原宗忠、俊恵法師、源俊重などと親交を持った。
*西国三十三ヶ所巡礼

詳しい伝記はこちらをクリック 。

参考文献:『平安時代史事典』「行尊」、「千人万首 行尊」、近藤潤一『行尊大僧正―和歌と生涯―』桜風社
2009.11.7  葉つき みかん  


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