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2006.10.8.に、イラストを描き直しました。新イラスト使用素材は、清少納言の上着地紋・丸紋(星宿海渡時船さん)単の幸菱(自作)、行成の袍地紋、下がさね地紋(宵居の物語さん)、袴の地紋(自作)です。

7777番を踏んでいただいたモモ様のリクエストです。

小倉百人一首 第六十二番 清少納言 

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の関はゆるさじ『後拾遺集・雑二・939』

【通釈】夜を包み隠して、そら鳴きの鳥の声が(私を)だまそうとしても、決して男女の間の逢坂(男女が会う=同衾する)の関は通しませんよ!

【語句】

*「こめて」:下二段活用動詞「こむ」(包み込む、閉じ込める、包み隠す)の連用形。 *「よに・・(否定詞)」:決して・・・しない。

【解説】枕草子百三十一段で有名な歌です。この歌は長徳三年(997年)以降に詠まれたので、清少納言が三十代半ばの頃に作成されたものとなります。

この歌が詠まれた背景を簡単に説明しておきます。分かりやすくするために台詞をだいぶ変えていますので、詳しくは参考文献を参照してください。

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・頭の弁 藤原行成殿(三蹟の一人)が、職の御曹司に参上して、清少納言と雑談していたが、丑の刻(午前2時ごろ)になったので、「明日は帝の御物忌みで、詰めなくてはならないから」と宮中に帰った。

・翌朝、行成殿から、「今日は大変心残りのすることです。夜通し昔話でもして夜を明かそうと思っていたのですが、鳥の声にせきたてられて」という文が来た。

・清少納言は、孟嘗君の故事を踏まえて、「まだ朝たいそう早いうちに(午前2時頃)鳴きました鳥の声とおっしゃるのは、あの孟嘗君のにせの鳥ででもありましょうか」と返事をした。

・すぐに行成殿は、「私の言うのは、孟嘗君の函谷関ではなくて、男女の間の逢坂の関です。」と返事をしてきた。

・清少納言は、「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の関は許さじ しっかりした関守がおりますから」と返事をした。

・すると行成殿の返歌は、「逢坂は人越え易き関なれば 鳥鳴かぬにも開けて待つとか

(逢坂の関は人が越え易い関なので、鳥が鳴かなくても開けて待っているとか:裏の意味は各自で考えてください)」だった。

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ちなみに「孟嘗君の故事」とは、

中国・戦国時代、斉の国の公族であった孟嘗君が秦に囚われ、逃れて夜半に函谷関に至った。秦の関法は鶏が鳴いてから開ける決まりだったが、まだ鶏の鳴く時間ではない。孟嘗君は、「もう駄目だ!」と思ったが、食客(居候のこと)に、鶏の鳴きまねが上手いものがいて、鳴き声を真似て関を開けさせ、無事に逃れることができた。(史記・孟嘗君列伝十五)です。

行成殿の当時の年齢は26歳~29歳です。

宮中の機知に富んだ会話の中で生まれた歌で、味わうにも函谷関の故事をしっかり理解していなくてはいけない。けれど、歌自体にはきらめきと軽やかさは失われていない。いかにも清少納言らしさが良く出ている歌です。

「よをこめて・・」「よにあふさかの・・」と一句目と三句目の頭に「よ」を持ってきて、リズムを作っているのが、耳と心に心地よく感じます。

【略歴】

<基本データ>

*平安時代中期の女房 *「枕草子」の著者 *生没年未詳。生年は康保元~三(964-966)年? *中宮定子に「少納言」の女房名で出仕したため、姓の一部「清」と「少納言」をあわせて「清少納言」と呼ばれる。 *父:清原元輔 *曾祖父:清原深養父 *子:橘則長、小馬命婦 *歌集「清少納言集」 *中古三十六歌仙

詳しい伝記はこちらをクリック

*描き方はいつものごとく、ミリペン(コピック)で輪郭を描き、フォトショップで彩色しました。鶏は、「ささらえ」さんの「月を指せば」内の、「石上神宮 ―八十物部の兵ども―」の写真をデッサンして描きました。

参考文献:角川文庫「枕草子」(石田穣二訳注)、千人万首「清少納言」、国史大事典「清少納言」

2003.7.30. 葉つき みかん


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