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小倉百人一首 第三十五番 紀貫之(きのつらゆき)

初瀬にまうづるごとに宿りける人の家に久しく宿らで、程へて後に至れりければ、かの家のあるじ、かくさだかになむ宿りはあると、言ひいだして侍りければ、そこに立てりける梅の花を折りてよめる


人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
『古今集・春上・42』
【通釈】
初瀬詣でに行く度に宿を借りている人の家に、長い間ご無沙汰して、年月が経ってから後に行った所、その家の主人が、「この様に確かにあなたの宿はありますのに」と言い出しましたので、そこに立っていた梅の花を折って詠みました。

「あなたの気持ちは・・・さぁ、どうだろう。私には分からないが、昔住んでいた土地では梅の花は昔どおりの香りで匂っていますよ。」

<語句>
*「人」:直接的には相手である宿の主を指す。下の「ふるさと」と対照させて、人間一般に対する気持ちも表している。
*「いさ」:下に打ち消しの語を伴って、「さぁ・・・ない」の意味となる副詞。相手の気持ちを軽くいなすような言い回し。
*「ふるさと」:以前住んでいた里。
*「花」 :一般に「花」というと桜を指すが、この場合は梅。

<解説>
この歌は、宿の主人に対する皮肉に皮肉で切り替えしたという解説も良く見受けられますが、長谷寺を訪れてみて、かの土地の雰囲気を肌で感じた私としては、幼馴染同士のじゃれ合いの応酬の様に感じました。

・・・幼馴染の「ずいぶん久しぶりじゃないか。都で出世して、昔馴染みの土地は御見限りかぃ?」との軽口に対して余裕のある軽口で返した貫之。その後にはすぐに笑いあって、疎遠だった時に起こった様々な出来事を酒を酌み交わしながら語り合っている様な印象を持ちました。そして妻たちはお菓子を食べて談笑し、子供達同士も梅の咲く庭を駆け回っている・・・。

『土佐日記』を読んだ限りでは、貫之は基本的に人を攻撃するタイプじゃないような印象を受けたのです。(一部空気が読めない人に対しては痛烈な皮肉を書いておりますが。「一月七日の段」)

それから、想像を逞しくしますと、この歌の「ふるさと」を「以前住んでいた土地」と解釈すれば、幼い頃、貫之は一時、長谷寺にいたるこの地に住んでいたとも考えられなくはないです。人物叢書『紀貫之』によると、紀氏は、奈良県西南部から和歌山まで勢力を持っていた豪族なので、幼くして父を亡くし、母も内教坊で忙しく過ごしていたならば、一時的に父の親族の家に預けられ、幼い頃のこの家の「主人」と親しくなったという事も考えられなくはないかと思います。 (その想像を思いっきりふくらまして、今回のミニストーリーを作ってみました。)

<ミニストーリー>

平安時代も中期に差し掛かった、貞観十八(八七六)年―清和天皇の皇太子である、陽成天皇が即位した年―

大和の国、初瀬の山のふもと、地方官の紀氏の館に、大きな梅の木が立っていた。
その下で、愛らしい顔をした、五歳位の男の子が泣いている。

色白のふっくらとした頬に、黒目がちの大きな目。
その目をぐっしょりと濡らしている。

それに、地方官の家の十歳くらいの息子が気づいた。
「おい」
男の子は驚き、泣くのをやめて、後を振り向いた。

目の前で大柄な男の子がにこにこ笑っている。都生まれ都育ちで余り外に出ていない自分と違って、山の中を駆けずり回って遊んでいるので真っ黒な顔をしている。体もがっしりとしている。
「どうした?こんな所で。お母さんを思い出したか?」
地方官の息子―古佐麻呂は、この男の子の父が最近亡くなってしまい、宮中の内教坊で妓女として働く母の仕事が落ち着くまで、しばらく父方の親戚である古佐麻呂の家に預けられたという事情を知っておりながら、ちょっと悪戯心を出して話しかけた。

男の子は図星を突かれて、ちょっと赤くなったが、すぐにむきになって言い返した。
「違うやい!目にごみが入ったんだい!」
「無理しちゃって!・・・それはそうと、名前はなんていうんだ?」
「阿古(あこ)。母上の同僚の舞姫達は、僕の事を阿古ちゃん、と呼んでいた。」
「ふぅん・・・可愛い名前だな。女の子みたい。」

「あ、ちょっとこっちに来いよ!」
古佐麻呂は、何かを思いついた様な表情をして、急に阿古の手を引っ張った。

そして、初瀬の山頂が見える少し小高い丘に連れて行った。
「どうだ?初瀬のお山の上にある、お寺が見えるだろう?」
阿古は、精一杯背伸びをしてみるが、ちょっと届かない様だ。すると、古佐麻呂は、ひょいと阿古をおんぶした。

すると、阿古の前に緑に覆われた山々が連なって、屏風の様になっている風景が飛び込んできた。清々しい風がにおってくるようだ。
「どうだ?見えるようになったか?」
「うん!」
「あそこに見えるお寺は長谷寺といって、霊験あらたかな観音様がいらっしゃる。あの観音様に毎日お祈りすれば、早く都の母君の所に帰れるよ。さ、ここからでも手を合わせてみな。」
「うん。」阿古は素直に小さな手をあわせて、熱心にお祈りをした。真剣な阿古の鼻息を首筋に感じて、古佐麻呂はくすぐったくなった。

「終わった。」
「じゃ、ついでにお山のふもとを見てごらん。」
「あそこは、昔、雄略天皇が泊瀬宮(はつせのみや)を置かれた所だという言い伝えがある。きっと我らの祖先、紀小弓 宿禰は、帝と一緒に馬に乗って、野山を駆け回っていたに違いないよ。」
「えっ!『籠もよ み籠もち・・』の歌を詠まれた雄略天皇と!?」
「そうだよ、阿古。よく知っているなぁ。」
「ぼく、やまとうたが大好きなの。真名(まな:漢字のこと)も嫌いじゃないけれど、やまとうたの方がもっと好きなの。母上がぼくを寝かせる時にやまとうたに節をつけて謡ってくれるからなのかなぁ・・。」

古佐麻呂は、阿古に話しかけた。
「明日もここに来て、お祈りしような。一日でも早く都に帰れるように。」
阿古は、急に古佐麻呂の首筋にしっかりしがみついた。幼子特有の甘い匂いが古佐麻呂の鼻に漂い、甘酸っぱい気持ちになった。
阿古は小さな声で恥かしそうにつぶやいた。
「古佐麻呂がいるから、すぐでなくても大丈夫・・・。」

それから、阿古と古佐麻呂は、毎日野山を駆け回って遊んだ。もちろん、長谷寺へも一緒に詣でた。
本堂へ登る為の梯子が大変だったけれど、古佐麻呂が阿古の後からしっかり支えてくれたので、登る事が出来た。

観音様は阿古の願いを聞き届けてくれたみたいで、半月ほどで母の職場で阿古を受け入れる用意が出来て、阿古を迎えに来た。母は、阿古が見違えるほど日に焼けて、血色のいい元気な様子で迎えたことに驚き、古佐麻呂とその父に御礼を何度も言って、都に帰っていった。

初瀬を離れる時、古佐麻呂は、「いつでも遊びに来いよ!」と言っていた。


―それから十年後、元服をして紀貫之となった阿古は、文章道を学び、官吏としての日々を送っていた。学問をする事によって、理論的な考え方を学び、幼い頃に感じていた信仰心はいささか薄れていたが、唯一、自分の願いを聞いてくれた長谷観音のご利益は信じていた。

都での仕事に行き詰ると、貫之は事態を打開するためと、古佐麻呂に会うため、度々、長谷寺に詣でた。

そのご利益か、延喜五(九〇五)年、三十四歳の貫之は、醍醐天皇から初の勅撰集選進を命じられた。事業の初めは、従兄弟の紀友則が中心で、貫之は補佐として働いていたが、友則が亡くなってから、貫之が選者の中心として事業を切り盛りしなくてはいけなくなり、長谷寺に詣でるどころではなくなった。

そして、五年、八年―延喜十三年頃、ようやく『古今和歌集』が完成した。それから完成の祝宴が続き、ようやく落ち着いた日々になったころ―


やっと貫之は長谷寺に御礼参りに来る事ができた。
妻と五歳くらいの息子も連れて、牛車に乗り、古佐麻呂の館―古佐麻呂の父はもうとうの昔に亡くなり、今は古佐麻呂があるじとなっていた―に近づくと・・・

懐かしい梅の香りがしてきた。

八年ぶりだから古佐麻呂は迎えに来てくれているだろうと思ったが、門には誰もいない。
(おかしい・・・文は届いているはずなのに・・・)

貫之は使者をやって、中に声をかけさせると、しぶしぶ古佐麻呂が縁側に出てきた。その表情は冴えない。

館の前に牛車を付けて、貫之は下に降りた。と、古佐麻呂は開口一番。

「都で偉くなったからって、十年近くもご無沙汰なんて、ずいぶんお見限りじゃないか。こちとら、毎年、そなたがいつでも来れるよう、万端の準備を整えていたのに。・・・そなたは、昔とは変わってしまったのか?」

貫之は、すぐピンと来た。
(ははぁ、古佐麻呂は、ずっと訪れなかったので、拗ねているな・・・。そして、帝と直々に接したり、三条右大臣(藤原定方)様や堤中納言(藤原兼輔)様達と親しく接している私が高慢に変わってしまったのではないかと少し心配しているようだ・・。)

貫之は、昔自分がその下で泣いていた梅の木に近寄り、花の咲いている枝を折り、匂いを嗅ぎながら歌を詠んだ。

「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」
「変わってしまったのは古佐麻呂の方では?私は昔と変わらず、古佐麻呂の事を大事に思っているよ。この昔と同じ梅の香りの様に・・・。」

古佐麻呂は自分の心配は杞憂だったのだと気づき、ぱっと屈託のない明るい笑顔になった。
「貫之!会いたかったよ・・・。」
そして、後に立っていた貫之の妻と息子に気づき、
「さぁさぁ、上がってください。美味しい山の幸と川の幸を用意してあります!」


数刻後、貫之と古佐麻呂は酒を酌み交わしながら、昔の思い出話と、貫之が中心となってやり遂げた『古今和歌集』編纂事業についての話に花を咲かせていた。
二人の視線の先には談笑する妻たちと、昔の自分たちの様に、梅の木の下で追いかけっこをする子供達がいた。

(終わり)

2009.8.29. 葉つき みかん

<略歴>

紀貫之(きのつらゆき)
<基本データ>

*平安時代初期の歌人・官人。 
*生没年:貞観十四年(八七二)?~天慶八年(九四五) 享年:七十四歳位  
*父:紀望行 *母:内教坊(女楽・踏歌を司る所)の妓女?(目崎先生説) *幼名:内教坊の阿古久曽(あこ・くそ)(「こそ」「くそ」は、古代語の「~ちゃん」の意味なので、「阿古ちゃん」)
*子:時文(『後選集』選者) *叔父:有朋 *従兄:友則「ひさかたの光のどけき春の日に・・・」
*初の勅撰和歌集『古今和歌集』選者の中心的存在。
*他撰『貫之集』 *『土佐日記』初の仮名文学日記 *『新撰和歌』
*友達:凡河内躬恒、壬生忠峯、源公忠、三統元夏(みむねのもとなつ)
*庇護者:堤中納言・ 藤原兼輔 (百人一首作者)、三条右大臣・藤原定方(百人一首作者)
*『百人一首』『三十六歌仙』
*邸宅候補(『貫之集』では、二回家を移ったとかかれている): 
①中御門の北・万路小路の東「桜町」 ②勘解由小路の北・富小路の東 ③京極中御門北

*能書家。侍従所の壁書(執務上の心得を書いた掲示)を書く。(子の時文も能書で、書いた。)

詳しい伝記はこちらをクリック 。

参考文献:『平安時代史事典』「紀貫之」、『人物叢書 紀貫之』(吉川弘文館)、「千人万首 紀貫之」

2009.8.29  葉つき みかん  


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