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小倉百人一首 第二十六番 貞信公(ていしんこう) 藤原忠平

「亭子院(ていじのいん)大堰川に御幸(みゆき)ありて、行幸(みゆき)もありぬべき所なりと仰せたまふに、ことのよし奏せむと申して」

小倉山 峰のもみじ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ『拾遺集・雑秋・1128』
【通釈】
宇多上皇(亭子院)が嵯峨の大堰川に御幸をして、(紅葉の景色の素晴らしさに)『行幸があってしかるべき所だ』(行幸は天皇の外出。子供である醍醐天皇もここの紅葉を見るべきだと言うこと)と仰ったので、これを帝に申し上げようと言う事で詠んだ歌。

小倉山の峰の紅葉葉よ、もしお前に心があるならば、もう一度、帝の行幸があるまで、散るのを待っていて欲しい。

<語句>
*「小倉山」:京都市右京区嵯峨にある山。大堰川を挟んで、嵐山に対している。紅葉の名所。
*「心あらば」:「心」は人間の心。物事の情趣や道理を理解し、わきまえる心。紅葉を擬人化した表現。
*「みゆき」:読みは同じだが、漢字表記で意味が分かれる。「行幸」→天皇の外出。「御幸」→法皇、上皇、女院の外出。を意味する。
*「待たなむ」:「待つ(未然形)」+「なむ(他者への願望の終助詞:~してほしい)」

<解説>
帝に御幸を勧めるために詠んだ歌とはいえ、忠平の優しさがにじみ出てくるような歌です。

この時代は百年ほど続いた漢詩文の全盛時代、イコール和歌の暗黒時代から抜け出て、醍醐天皇の旗振りにより『古今和歌集』の編纂がなされていた、記念すべき時代です。この時代から百年ほど前の嵯峨天皇は、唐で留学してきた橘逸勢、空海を重用して唐文化を宮廷で流行らせました。それから宇多・醍醐朝に至るまで和歌は暗黒の時代で、公的な芸術とは認められず、私的なやり取りに使われるに過ぎなかったのです。(だから、その時流に乗らず、自分達の和歌を追求した在原業平・行平周辺、小野小町、元良親王周辺の人々の存在は意義があります。)

だから、帝に御幸を勧めるために和歌を詠んだというのは、当時においては流行の最先端を行く画期的な事だったのではないでしょうか。

そして定家は、やはり小倉山山荘に貼る紙に書く和歌という事と、自分の誇るべき先祖という事で、こちらの歌を選んだのではないかと思います。

『古今著聞集』に、紀貫之が、この大堰川行幸の為に書いた仮名序がありましたので、そのまま載せます。行幸の雰囲気が良く伝わってきますのでどうぞ良く味わってくださいませ。


四七九 亭子院御時大堰川行幸に紀貫之和歌の仮名序を書く事

亭子院御時、昌泰元年(註:延喜七年の間違い?『平安時代史事典』は延喜七年にしている。)九月十一日、大井川に行幸ありて、紀貫之和歌の仮名序書けり。(↓ここまで、橘成季の解説。この下から仮名序本体。)

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あはれわが君の御代、なが月のここぬかと昨日いひて、のこれる菊見たまはん、またくれぬべきあきをおしみたまはんとて、月のかつら(註:月にある桂の木と桂川とをかけたもの。)のこなた、春の梅津(註:京都市右京区、桂川沿いの地。)より御舟よそひて、わたしもりをめして、夕月夜小倉の山のほとり、ゆく水の大井の川辺に御ゆきし給へば、久かたの空には、たなびける雲もなく、みゆきをさぶらひ、ながるる水ぞ、そこににごれる塵なくて、おほむ心にぞかなへる。

いま御ことのりしておほせたまふことは、秋の水にうかびては、ながるる木の葉とあやまたれ、秋の山をみれば、をりひまなき錦とおもほえ、もみぢの葉のあらしにちりて、もらぬ雨ときこえ、菊の花の岸にのこれるを、空なる星とおどろき、霜の鶴川辺にたちて雲のおるかとうたがはれ、夕の猿山のかひになきて、人のなみだをおとし、たびの雁雲ぢにまどいて玉札(たまづさ:手紙)と見え、あそぶかもめ水にすみて人になれたり。入江の松いく世へぬらん、といふ事をぞよませたまふ。

(註:「ミロール倶楽部」内「古今和歌集の部屋」によると、この部分は、法皇が貫之達に出した九つの題を述べているとの事です。詳しくは、当該サイトを参照してください。)

我らみじかき心の、このもかのもとまどひ、つたなきことの葉、吹く風の空にみだれつつ、草のはの露ともに涙おち、岩波とともによろこばしき心ぞたちかへる。

このことの葉、世のすゑまでのころ、今をむかしにくらべて、後のけふをきかん人、あまのたくなわ(楮で作った縄)くり返し、しのぶの草のしのばざらめや。

太政大臣 貞信公

小倉山 紅葉の色も 心あらば いま一たびの 御幸またなん

躬恒

わびしらに ましらななきそ 足引の 山のかひある けふにやはあらぬ


<参考歌>藤原忠房「古今和歌六帖」
よし野山岸のもみぢし心あらばまれのみゆきを色かへでまて

  作者不明「亭子院女郎花合」
をぐら山みねのもみぢばなにを糸にへてか織りけむしるやしらずや


<ミニストーリー>
平安時代前期、延喜七年(九〇七)、九月十一日、宇多法皇が京の西、嵯峨の大堰川に御幸を行った。法皇はただいま四十一歳の男盛りではあるが、仏教へのご信仰の篤さにより、八年前にご出家されて、墨染めの衣をまとっておられる。法皇様はご退位されてから遊覧をことのほかお好みになられ、しばしばお気に入りの歌人や廷臣を連れて、畿内の景勝地をめぐっておられた。
今回の御幸も、法皇が思い立たれたものである。

二十八歳の右大弁・藤原忠平は法皇の御車に騎馬でしたがっていた。忠平は権勢を誇った関白・藤原基経の四男で、菅原道真を大宰府に左遷した藤原時平の同母弟であった。

忠平の他にも紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑、大中臣頼基、坂上是則、藤原伊衡など、そうそうたる歌人が法皇の列に付き従っていた。

嵯峨の紅葉を目にした一同は、息を飲み、しばらく言葉を失った。
こんもりとした山々に生える木々は、赤や朱色、黄色や少しだけ残る緑色で「錦織」と呼ぶに相応しい艶やかさだった。
大堰川の透明な流れは、澄み切って爽やかな音を立てて流れ、時おり落ちる葉を受け止め、流していく。

法皇様は、ふと我に返ったようにつぶやいた。
「ここの紅葉は素晴らしい。行幸もあってしかるべきだ。」
「まことに。・・・ぜひ主上(醍醐天皇)にも御覧いただきたいです。」
忠平は厳かに言った。

「すまぬが、朕の代りに主上に行幸を勧めるよう奏上をしてくれぬか?」
法皇様は忠平の方に向い、目を細めながら温かい声音でおっしゃった。

忠平は、明るい声で答えた。「はい、喜んで。」
忠平は従者から紙と筆を受け取り、さらさらと奏上文を書き、法皇様にお渡しした。

法皇様は、文をさらっと読み、うなずいた。


内裏へ帰る使者に忠平の文を預けた後、大堰川に、かねて用意していた屋形船を浮かべ、法皇様、忠平を初め、歌人達が乗り込んだ。
そして、法皇様により、「秋の水に浮かぶ」「秋山のぞむ」「紅葉落つ」「菊の花残れり」、その他に五つ、合計九つの題が出され、歌人はそれぞれ題に従った歌を詠んだ。


歌会の後の酒宴で―
法皇様は、忠平の横で酒をお飲みになられていた。
「そなたが書いてくれた奏上文に添えられていた歌は素晴らしかった。」
「小倉山 峰のもみじ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ」

忠平は酒でほんのり酔っていたが、恥ずかしそうに目を伏せた。その耳に法皇様の声が聞こえる。
「朕が主上の事を思い、素晴らしい景色を見せたいと思う気持ちを見事に代弁してくれていた。読んでいて涙が出そうになった。」

忠平は、恥かしそうにつぶやいた。
「私の技量ではございません。法皇様の主上へのお気持ちと紅葉の美しさが私の力量以上の歌を引き出したのです。」
「その控えめな所がそなたのいい所だ。」
「だから朕はそなたを信頼して、いろいろな政(まつりごと)を任せる事ができる。」
忠平は法皇様のその言葉を聞き、再び視線を上げた。

法皇は船外へ目をやっていた。色鮮やかな紅葉が目にまぶしい。風にはらはらと散った葉が、水の上に落ちた。
「宮滝の紅葉とまた異なる情趣があるものよ・・・。」
忠平の頭の中で「宮滝」という言葉が跳ねた。
(宮滝・・・法皇様がかつて右大臣(道真)様と一緒に行かれた所か・・・。)

法皇はぽつんとつぶやいた。
「そなたと道真と三人で、この紅葉を見たかったな・・・。」
忠平は法皇の横顔を拝見した。
法皇様は扇で顔を隠している。きっと道真様への涙を流しておられるのだろう。


忠平は道真の思い出をたぐり寄せた。

私の頼れる先輩であった道真様。
兄・時平と道真様は疎遠であったようだが、私は元服当初から法皇様(宇多院)に近侍してきていた事もあり、道真様を父の様に慕っていた。
なのに、流される時には私は何もしてあげられなかった。廟堂全体が道真様排斥の嵐で渦巻いていて、下手をしたら自分自身も政治生命を絶たれかねない勢いだったのだ。人目をはばかりつつ、配所へ消息を出すのが精一杯だった。

あの、昔の皆が家族だった時の様な時代が懐かしい・・・。

忠平は、自分と同年代でありながら、主上に重用され、初の勅撰和歌集の選者に選ばれて時めいている歌人達が、酒に酔って歌の応酬を行う姿を眺めた。

(自分は主上と政治の進め方の方向が微妙に違う。だから、将来も決して主上に重用されることはないだろう。)

身分は低いかもしれないが、政治のしがらみを越えて、歌により主上と法皇様のどちらにも可愛がられている彼らに、忠平は少し羨望を感じた。

(今は律令の仕組みが上手く働かず、税金の徴収が滞り、未曾有の財政危機だ・・・。)

(主上は、今までの様な人を単位として税を掛ける班田収受を強く推し進め、統制を強化する事により、税収を回復させようとしておられる。しかし、私は、むしろ土地単位に税を掛け、直接領民と接する国司に軍事権や租税徴収権などの権限を与え、国の定めた量の税を集める責任を持たせたほうが、確実に税は集まると思っている。)

(主上をはばかって、表面には出していないが、国家財政の実情を知る心ある官人達は、私の考えに心を寄せているという自負がある―そして主上の中宮であるわが同母妹・穏子も―)

(しかし、わが長兄・時平は、主上と考えが同じらしく、主上に勧めて私たちの陣営の重鎮であり精神的支柱であった道真様を中央政界から追放した―)

忠平は、酒をぐいと飲み干した。

(私は、これから、どうなって行くのだろう・・・。将来、道真様の様に、主上そして兄と対決し、追放されるのか―。)
(―いや、決してそんな事はさせない。この上私までいなくなったら国はどうなる?)

忠平は目の前の歌人達を見た。皆、幸せそうに酒に酔い、紅葉を眺めている。
(この者達も、このようにのんびりと歌を詠んでいられなくなるのだ・・・。)

忠平は目を閉じ、心の中でつぶやいた。
「法皇様、道真様、私はどれだけ主上達から冷遇されても、むやみに波風を立てないで、黙々と仕事をし続けます・・・いつか、私の理想が実現できるように・・・。」

(―さしあたっては・・・私の歌で少しでも法皇様と主上の間がお近づきになる事を祈って―)

忠平は、杯を神に捧げるように、少し上に持ち上げた。

終わり



<略歴>
藤原忠平(ふじわらのただひら)
<基本データ>
*生没年:元慶四年(八八〇)~天暦三年(九四九) 享年:七十歳
*諡号:貞信公(信濃国を封ぜられる)
*通称:小一条太政大臣
*父:藤原基経(基経の四男) *母:人康親王女
*同母兄弟姉妹:時平、仲平、穏子(醍醐天皇后、朱雀帝、村上帝母)
*妻:宇多天皇皇女・順子
*子供:実頼、師輔、師氏、師伊、保明親王室→子孫は摂関家の主流に。
*時平の遺志をついで『延喜格式』を完成させる。
*日記『貞信公記』 *口伝・教命『貞信公教命』(散逸)
*勅撰集入集は十三首。



詳しい伝記はこちらをクリック。

参考:『千人万首』「藤原忠平」、『平安時代史事典』「藤原忠平」、「大堰川行幸和歌」、『古今著聞集』

2008.12.21(11.13.)  葉つき みかん  


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