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5000番を踏んでいただいた、ささらえさんからのリクエストです。

「信濃国伊那と申す山里に年へて住み侍りしかば、今はいづかたの音信もたえはてて、同じ世にありとも聞かればやなどおぼえし頃よみ侍りける」

われを世に ありやととはば 信濃なる いなとこたへよ 嶺の松風『李花集』

宗良親王

【通釈】
信濃国伊那=長野県大鹿村大河原 という山里に長年住んでおりました所、今はどのほうからの便りも絶え果てて、「生きているかどうか人に聞かれたい」などと思った頃に詠みました。
もし誰かが、私の事をまだ生きているのかと尋ねたら、信濃の伊那というところにいると・・・否々(いないな)、もはやこの世を去ったと答えてくれ、嶺の松風よ。

【語釈】いな:信濃の地名「伊那」と、「否」をかけている。

【解説】

詞書によりますと、この歌は宗良親王が、伊那に滞在していた時に詠まれたものです。

宗良親王が伊那へ行った時期は、1344(33歳)~1374(63歳)、1377(66歳)~1380(69歳)、最晩年の三回に分けてですが、この歌がいつ詠まれたのかは、私にははっきりわかりません。でも、所収の歌集「李花集」の成立が1374以降まもなくとなっておりますので、それ以前には詠まれていると考えたら、1344(33歳)~1374(63歳)の間でしょうか。その中でより範囲を絞ると、「いづかたの音信もたえはてて」より、長年歌友の北畠親房の死が1354年、交友を持っていた従兄弟二条為定の死が1360年なので、その付近だと推測することができます。従って、私はこの歌は宗良親王50歳頃に詠まれたと考えました。

望郷の念とそれをつきはなす強さがしみじみとつたわってくる名歌です。私は伊那にいるんだ・・!誰か気づいてくれ!・・と、望郷の念にさいなまれつつ、はたと我に返り、いやいやと頭を振って、私はもうこの世にはいない者だとして生きようと、割り切って、襟を正す様子が見えてくるようです。せつないなぁ・・・!

ただ人ならば、里の人と触れ合って、寂寥を慰められるのだけれど、南朝方の皇子であるばかりに、山里に身を隠して存在を見つけられないようにしなくてはならない・・寂しさは想像するに余りあります。都会が好きな私は、知り合いのいない山里に30年も住み続けることなどできません。親王も、南朝再興の目標がなければ、寂しさで狂ってしまいそうになった時もあったでしょう。華やかな都の生活をしっていると特にその思いは強くなったに違いありません。でも、この方は、この歌才を持ち、都にいては体験できなかった辛い事、苦しい事を体験し、美しい景色を見ていろいろな感情を感じたからこそ、絵空事、想像上の事ではなく人間の心にしみいる歌を詠めたのだと思います。

【略伝】
<基本データ>
*南北朝時代の南朝の皇子 *生没年:応長元(1311)~1389年以前 *通称:妙法院宮・信濃宮 *父:後醍醐天皇 *母:二条為世女・為子 *家集『李花集』


*歌の詠まれた年齢を考慮して、50がらみのおじさんになりました。意識したつもりはないのですが、少し後醍醐さんに似てしまいました(^_^;)鎧(腹巻)は構造を理解していないので、肩の辺りが少し変になってしまいました。ご容赦ください。背景は松林が描けなかったので、フリー写真素材 かもめ工房の写真を利用しました。渋い雰囲気を出そうと努力しましたが、成功しているかどうか・・・。

2003.5.30. 葉つき みかん

こちらの内容(データ部分)は、千人万首「宗良親王」をもとにさせていただきました。

*鎧の構造といい、南北朝に関しての理解といい、もっと改善の余地があるコンテンツだとは思います。きちんと勉強して描き直したいです。でも、だいぶ時間をかけて描きましたので、思い出深いです。


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