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平安初期の貴族女性の装束形態変化について描いた、3つの4コママンガをまとめてアップしています。

 「君がため」を描く際に考えた装束の発展に関しての想像・妄想を私なりにスライドショーにしてみました。
 学術的に認められた説ではないので、どうか学校の答案やレポートなどには書かないでくださいね。




以下、シナリオです。

一「平安初期~中期の貴族女性の装束変化について 葉つきみかんの考え」

1:平安初期(西暦八〇〇~九〇〇)、女性の正装はこんな感じでした。

 髪:采女の髷。(前髪をまとめて、頭頂で一つ髻。横の髪は一旦耳の辺りで下げて、頭頂の髻にまとめる。残りの髪は、腰の下くらいの長さ。肩と背中くらいで2つ結ぶ。)平安初期の女神の像より復元。
 唐風の唐衣、スカート状の裳。奈良時代より少し袖はゆったり。

2:平安中期(西暦九〇〇~一一〇〇)、正装(女房装束・唐衣裳 通称:十二単)はこの様に変化します。

 平安中期でもお団子の様に前髪をまとめて、髪上げをする事が最高の正装。
 唐衣は中身に合わせて長大化。
 裳は、袿を何枚も中に着込めたので、体に回せなくなって、背中にちょんとつけるだけになる。
 袴も長大化して、足で踏んで歩くようになる。
 袿が正式な服として出世!

3:私(葉つきみかん)は平安初期の家庭での室内着が中期に正装にまで高められたと想像しています。
 (以下は、私の想像する室内着です)
 
 寛いでいる時には髷は外していたのでは?
 裳の下には必ず袴をはいている。袴は現代でいう下着・ズロース感覚。腰は必ず片結び。
 唐衣・裳を脱ぎ、上からゆったりとした内着(うちぎ)を着る。
 ※内着=袿→もともとの漢字が「内」で「着る」服。→ガウン感覚で着ていたのでは?

4:今回、班子女王には、唐衣・裳の上から防寒着として、袿(内着)と単を羽織らせました。マンガ「君がため」参照
 だから、時康さんが来た時にはすぐ、袿を脱いで対応できたという設定です。

参考文献:
京都美容文化クラブ『日本の髪型・伝統の美・櫛まつり作品集』(光村推古書院)
高田倭男『服装の歴史』(中公文庫)
風俗博物館『日本女性服飾史』(光琳社出版)

二「その時、服飾史は動いた?かもしれない 1 ~唐風装束から国風装束へ~」

1:西暦九〇〇年ごろ、宇多天皇の御代、内裏で―外は雪。

妃の一人が、内着で寛いでいる。その前には唐風の唐衣・裳で正装している女房。
「主上(うえ)のお成り~」

2:宇多天皇がひょこっと現れる。
女房はうつむいて控える。

妃はうろたえて「す・すみません、内着のままで。すぐに着替えて参ります。」

3:宇多天皇は(内着姿の妃もなまめかしい・・・。)と思いつつ、にやにや。
「いいんだよ、そのままで。寒いのだろう。」

4:妃は感動。「主上・・・お優しい御方・・・vv」

―それから、天皇が認めたということで、女性達は公的な場にも内着(袿)・袴で出るようになりましたとさ。
 

註:この場面はあくまで葉つきみかんの創作です。古典にそういう記述があった訳ではありません。
高田先生の本で宇多天皇の御代からかさねの色目に関する用語と「袂(たもと)」という言葉が発生すると書かれていました。
そして、宇多天皇の性格から、こんな場面もあったかもしれない、と想像してみました。
 

三「その時、装束史が動いた?かもしれない 2 ~内着から女房装束へ~」

1: 妃、内着をしげしげ眺めて(でも、このままでは主上の前に出るのに失礼な気がするわ。夜具用だから布の質も悪いし、無紋だし・・・。何より美しくない。)

2:妃(何枚か綺麗な色の内着を重ねて、上に良い織りの内着(後に上着と呼ばれるものになる)を着たら良いわ♪)

3:妃(そして、やはり唐衣は必要よね・・・。成人女性の証として、髪も上げて、裳も着けなければね。)

4:妃、袿を重ね、その上に唐衣(まだ袖は短い)を着て、裳を着ける。髪も一つ髷をつけている。
 「一周は巻けないから背中に着けてみたの。こんなもんでいいかしら?」

―そして、この時、女房装束の原型が完成した!?

(終)

2009.7.18. 葉つき みかん
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