<ミニストーリー>

今回はいつも以上に想像を交えてしまいました。家隆と定家が若いとき、二人の間にこんな出来事があったのかなー、あったらいいなーと思ってかきました。

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承久の乱で後鳥羽院が隠岐に流されてから八年後の寛喜元年(1229)。

京、従二位藤原家隆の邸で―

「前関白・九条道家殿から御息女入内の際に屏風に書く歌の依頼が届きました」

息子・隆祐の声を聞き、壬生二品・藤原家隆は文机から顔を上げた。

家隆は七十ニ歳。既に真っ白になった鬢を綺麗に撫でつけ、しわはあるけれども白くてすべらかな蝋の様な肌をしている。大きく色素が薄い透き通るような瞳で隆祐を見た。

「どういたしましょうか。お受け致しますか?」

家隆はほんの少しの間思案するように空に視線を飛ばした。そしてすぐ、柔らかく微笑した。

「当然だ。私は道家殿の御祖父の月輪関白殿(九条兼実)、お父上の後京極摂政殿(九条良経)に大変お世話になった。お声をかけていただくだけでも大変ありがたいことだ。」

隆祐は、ちょっと驚いたように目を見開いた。が、すぐに我に返った。
「はっ、かしこまりました。」

隆祐が道家殿からの使者に承諾のお返事を告げに走って行く音を聞きながら、家隆は瞳を閉じた。

まぶたの裏には、後鳥羽院から勅勘をこうむる直前の定家の顔があった。

(定家・・・。そなたが道家殿に進言したのか・・・?)

道家殿の姉・立子殿所生の九条廃帝(仲恭天皇)が承久の乱敗北により即位後、八十一日で廃された。

帝の外戚となる夢破れた道家殿が、今度は帝の外祖父となる勝負を掛けている(立+尊)子様入内。
その為のお支度である月次(つきなみ)屏風の準備も気合が入っているであろう。

屏風絵自体も、その絵に歌を添える歌人も一流でなくてはならない。

なぜ、私に声をかけた?定家・・・。

定家の妻は関東申継の地位にあり、都で勢威を振るっている西園寺公経殿の同母姉。累代でお仕えした九条家も当主の道家殿が公経殿の婿であるため、政治の要を担っている。

乱の前は後鳥羽院の勅勘をこうむって閉門していたが、今はそれが幸いし、公経殿、道家殿の後援を受けて、歌壇の中心人物となっているようだ。近々、帝(後堀河帝)より勅選集の選定を命じられるとの噂もある。

きっと今回の屏風の歌人選定にも定家がかなりの程度関わっているだろう。



それに引き換え、私はいまやほとんど世捨て人の境遇。

後鳥羽院歌壇華やかなりし頃は、私はもったいなくも院にお引き立ていただき、後京極摂政・九条良経殿からは、かたじけなくも「末代の人丸」という呼び名をいただいた。・・・しかしそれも昔の話。

承久の乱で院が敗北し、隠岐に配流された後でも、私は院をお慕いし続けて、消息を送っている。自然、私は鎌倉から疎んぜられ、歌壇の中心から離れて侘しい日々を送っている。

乱の敗北から守護・地頭の横暴も激しくなり、領地からほとんど年貢があがってこなくなっているが、私は敬愛する院への消息を絶ち、鎌倉方の公卿にすりよることはできなかった。

隆祐が私の承諾に驚いていたのも、いままでのこんな私の態度をみていたゆえだ。


あからさまに鎌倉には楯突いていないけれども、従順に従ってもいない。そんな私を、定家はどのように道家殿に推薦したのだろう。


家隆は昔、順徳天皇の内裏で行われた「冬題歌合」で、家隆の歌が天皇の御製と番えられた時、満座が天皇の歌を支持する中、一人口角泡を飛ばして家隆の歌を支持する定家の様子を思い浮かべた。

そして、私はなぜ依頼を受けたのだろう・・・。

家隆は、ふっと自嘲的に笑った。

やはり私にはまだ、晴れがましい場に出たいという欲が残っていたと見える・・・。



翌日、家隆は屏風に描かれる予定の絵の題名一覧を眺めていた。そして、ふと一カ所で目をとめた。

そこには「上賀茂神社 夏越の祓」と書かれていた。

家隆は遠くを見るような目付きになった。



-夏越の祓か・・・。

あれは六十年ほど前。
私が十八歳位の時、定家と一緒に上賀茂神社の夏越の祓を見に行ったな・・・。

定家は十四歳。ようやく父君の俊成殿から本格的に歌の手ほどきを受け始めた頃だった。私も一年ほど前に舅の寂蓮の紹介で、俊成殿の門下に入ったばかり、ほとんど同じ位から歌人としての修行をはじめていた。

そのころから既に大御所の歌人であった俊成殿に、作歌の参考になるから、と定家と一緒に夏越の祓を見に行くことを勧められた。

私は即座に承諾の返事をした。俊成殿は私を連れて定家の部屋に行った。定家は内裏から帰り、涼しそうな水色の紗綾の狩衣に着替えた所だった。

「今日は上賀茂神社で夏越の祓がある。作歌の助けになるだろう。見に行ってはどうか。」

俊成殿は幼子に対するように定家に話しかけた。五十歳を過ぎても若いときのまま端正な顔も、定家の前ではとろけてしまいそうに見えた。

四十近くなって生まれた子はかわいくて仕方がないのだな・・・。私は心の中で微笑した。

「嫌だ。暑いじゃないか。それにまだ虫が出る。蚊に刺されたらかゆいよ。」

まだ父君に甘えたいさかりの定家は口をとがらした。

俊成殿は困った顔をして、

「せっかく家隆殿もついて行ってくれるのに。」

定家はぱっと顔を輝かせた。
「え、ホント?じゃあ行く。」

兄弟はたくさんいるがすべてかなり年長で、実質一人っ子のように育てられた定家は私を兄のように慕ってくれていた。
嬉しそうに私と一緒の牛車に乗り込む定家を見て、私はなんだかくすぐったい気持ちを感じた。

夕暮れの中、牛車の中で定家は、今日内裏でどんな面白い体験をしたかを熱っぽく話し続けた。実は私と定家は同じ侍従として帝に仕えている。・・といっても、私は定家より一年後に侍従になったので、定家は先輩でもあるのだ・・・。


上賀茂神社につくと、従者が川に流す紙の人形(ひとがた)を取って来た。
定家と私は裏に自分の名前を書き入れた。
あと数刻ではじまる儀式で、最後にならの小川に流し、この半年で身についたケガレを流すのだ。

私は文字を書いている定家をのぞき込んだ。
「丸っこい字ですねぇ。」
すばやく自分の字を袖で隠して、定家は上目使いで私をにらんだ。私はほほ笑みながら、手を出した。
「神主殿に渡しに行きます。お渡しください。」
「ぼくが渡しに行く!」
定家は私の手から人形を抜き取って社殿の方へ走って行った。


私は、牛車から降りて、定家が戻ってくるのをゆっくりと待っていた。

松明を持った従者を従えて定家が戻ってきた。
「あちらに、大きな茅の輪があるよ、くぐりに行こう!」

私と定家と、従者は、直径が人の高さほどもある、わらで出来た大きな輪っかを作法通りにくぐった。
「水無月(みなつき)の 夏越しの祓する人は ちとせの命 のぶというなり」という歌を心で唱えながら、左まわり、右まわり、左まわりで輪をくぐった。

そうこうしているうちに真っ暗になり、人形流しの時間が近づいたので、私たちは、ならの小川の方に歩いていった。
もうたくさんの人々が集まり、私達が入り込む隙間はない。が、御子左家の従者達はしっかりしたもの、牛飼い童ともう一人の従者が、私たちの場所をとっておいてくれて、私たちは一番前で見ることができた。

後で並んでいた子供が恨めしそうな目で見ていたので、私はその子を膝の前に引き寄せた。定家はちょっとすねたような顔をした。

川の流れる音が耳に心地よい。暑かった夏が嘘の様に耳元を涼しい風が通り抜けていく。

「結構涼しいね。来てよかった。」
定家はつぶやいた。

川の中に立てられた、四本の篝火に火が点された。風があるので、気持ちよいほど燃える。篝火の明かりが川の流れに映って幻想的な情景を作り出した。
橋の様に川に渡された建物に、白い浄衣を着た神職が現れて、楽の音が鳴りはじめた。

神職たちは身を乗り出して、私達が名前を書いた紙の人形を川に流していく。一つ一つの人形が、逆らいようのない運命に翻弄される私たち人間の様に思えた。

「みそぎする ならの小川の河風に 祈りぞわたる 下に絶えじと」
つぶやいた定家の声に気づいた私は、声をかけた。
「八代女王の歌ですね。『古今六帖』の。」
「最近、父上に言われて『古今六帖』を暗記したんだ。『ならの小川』を見ていて、思い出した。」

「私の今の気持ちは、『後拾遺集』源頼綱の『夏山のならの葉そよぐ夕暮は今年も秋の心地こそすれ』という感じです。」

定家は風を感じるようにうっとりと目を閉じた。
「そうだ・・・。こんなに涼しいからもう秋みたいに思えるよ・・・。」
「でも、水無月の最後の日である、今日は、まだ暦の上では夏なのですね・・・。」

私たちは次々と流れてくる人形を、いつまでもいつまでもながめていた。



あれから二人で百首歌をいくつも詠んだり、歌合に参加したりして切磋琢磨した。和歌所の寄人や、『新古今集』の選者に選ばれて、かなりの時間を一緒に過ごして来た。
そして、お互いを歌人として尊敬し、認めて来た。

昔を覚えているか?定家。いや、覚えてなくても仕方あるまい。もう六十年近くも前の話だ。ただ、私はこの歌を詠みたいだけなのだ。

「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」



一月ほどたち、家隆は夏越の祓の歌が女御入内の屏風歌に採用された事を知った。

家隆は静かに微笑んで、それを知らせる文を文箱にしまった。


(終)

参考:『千人万首』「藤原家隆」、『平安時代史事典』「藤原家隆」「藤原定家」、『人物叢書 藤原定家』(吉川弘文館)、『今物語』(講談社学術文庫)

2008.6.15  葉つき みかん


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