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<人物紹介一覧> (氏族毎・五十音順)

<皇族>
敦康親王 ●飯豊皇女 ●大伯皇女 ●覚法法親王 ●(女+原)子女王 ●元性法印(崇徳院皇子) ●元明帝 ●後一条天皇後白河院  ●実仁親王 ●三条帝 ●重仁親王(崇徳院皇子) ●持統帝 ●式子内親王 ●輔仁親王 ●崇徳院 ●清寧帝  ●高倉天皇 ●隆姫女王 ●天智帝 ●禎子内親王 ●(女+是)子内親王(郁芳門院)当子内親王 ●鳥羽天皇 二条天皇 ●宗良親王 ●令子内親王 

<赤染>
衛門(大江匡衡妻

<在原(ありわら)> ●業平

<大江> ●和泉式部(雅致女)千里匡房

<大中臣> ●伊勢大輔(輔親女)能宣

<小野> ●小町

<大伴>  ●家持

<葛城> ●磐之媛

<紀> ●貫之

<清原> ●清少納言(元輔女) ●深養父

<平> ●兼盛 ●清盛 ●維盛 ●滋子(建春門院) ●重衡 ●重盛 ●資盛 ●周防内侍(棟仲女)  ●時子(二位尼)徳子(建礼門院)

<橘> ●小式部内侍 ●俊綱

<高階> ●貴子=儀同三司母(成忠女)

<春道>
列樹

<藤原(京家)>

<藤原(式家)>

<藤原(北家)>

顕季 ●顕輔 ●顕隆顕信敦忠有佐(後三条院落胤) ●家忠家成家保 イ子(二条帝母)威子伊勢右京大夫(建礼門院)延子(後朱雀院妃)

(九条)兼実兼輔寛子(小一条院女御・道長女) 寛子(四条宮・頼通女)歓子(小野皇太后)公子(公実女・源有仁室)清輔公実忻子(後白河院中宮)(西園寺)公経公任公季公教公能嬉子妍子顕昭伊尹伊通伊行

定信定頼実方(後徳大寺)実定実国実宗実行実能慈円重家(顕輔子) ●茂子成範(信西男)重通静円彰子(上東門院)季通 生子(後朱雀女御)全子(一条殿)尊子(道長女・源師房室)

高子(二条后)隆季隆房忠実(富家殿)(中山)忠親忠教(師実男) ●(花山院)忠雅忠通(法性寺殿) 忠宗 璋子(待賢門院)為通経実 経宗呈子(九条院)俊家俊忠長家長実得子(美福門院)

成親成通信家(山井大納言)教長教通

多子(近衛天皇女御) 道綱母道信道雅宗輔(蜂飼大臣) 宗忠宗俊宗通宗能紫式部基実基経(昭宣公) 基俊基房(松殿)基通師実(大殿) 師輔師通(後二条殿)通房(頼通男)

泰子(高陽院)義孝能信(九条)頼経=三寅 頼長(悪左府)頼宗

<藤原(南家)> ●右近 ●紀二位=朝子(準備中) ●実兼(準備中) ●通憲 前編 後編

<三浦> ●光村

<源>

*嵯峨源氏*

*清和源氏*
実朝

*宇多源氏*
資賢経信俊頼

*村上源氏*
顕国顕房 顕仲顕雅 顕通

覚豪法印督の君寛遍国子(基房母)国信(藤原)賢子(白河院中宮) 

定房信子(基実母)定海

俊房

成信成雅信雅 

兵衛(堀河妹)別当(皇嘉門院)堀河(待賢門院) 

雅兼雅定雅実(久我大相国)雅通雅頼通親通能明雲  ● 師子(藤原忠実室) ●師隆 師忠師時師房師頼

(源)麗子(藤原師実室・師通母)

*三条源氏*
行尊 ●季宗 ●兵衛佐(崇徳院愛妾・行宗養女) ●基子(後三条院女御) ●基平行宗(兵衛佐局養父

*後三条源氏*
有仁

*不明・調査中*
兼昌 方弘(まさひろ) (『枕草子』登場

<良岑(よしみね)> ●遍照(俗名:宗貞

<姓不明> ●紀伊(祐子内親王家/一宮) ●喜撰法師蝉丸  ●額田王  ●三重采女



フィクション一覧

<フィクション> ●うつほ物語全般 (目次準備中)●藤原仲忠(うつほ物語)六条御息所(源氏物語) 



2016年2月17日 再移転終了。

赤染衛門(あかぞめえもん)


<基本データ>
*平安時代中期の女房(藤原道長正妻・源倫子女房、上東門院彰子女房)・歌人
*生没年:未詳 天徳年間(九五七~六一)~長久二年(一○四一年)頃? 
*実父:平兼盛 *養父:赤染時用(あかぞめときもち) 
*夫:大江匡衡
*子供:大江挙周(おおえのたかちか)、江侍従
*良妻賢母の誉れが高い。
*八十歳になるまで歌壇で重きをなした。
*家集『赤染衛門集』
*『女房三十六人歌合』『小倉百人一首』
*『栄花物語』前編の作者という説がある。

<年表>
天徳年間(九五七~六一)の生まれか?

※藤原清輔 著『袋草紙』によると、赤染衛門の母は平兼盛と結婚している時に衛門を身ごもったが、妊娠中に兼盛と離婚。一人で娘を産んだ。兼盛が引き取ろうとしたが、母が拒否した。(管理人:一体兼盛は彼女にどんなひどい事をした?)訴訟の間、たまたま担当であった検非違使の赤染時用と母が密かに情を交わして、時用は、兼盛は娘と会うことはできないという判決を下した。

天延年間(九七三~七六) 十代半ば頃 大江為基(匡衡の従兄弟)との交際を経て、大江匡衡と結婚。源雅信邸に出仕、長女・倫子に仕える。

(管理人:この辺りの恋歌のやり取りを見ていると、衛門は二人の素敵な男性に熱烈に思われてモテモテな雰囲気です。私は『家集』を見るまで衛門は匡衡とひっそりと結婚をして、彼以外の男性とは積極的に接していないと勝手な思い込みをしていたので、この色めいた雰囲気に驚きました。
そして彼女は為基、匡衡から熱烈求愛を受けていた頃と同時期に、源時叙(みなもとのときのぶ・倫子の同母弟)からも恋歌を贈られていました。
結婚してからも、匡衡は度々、衛門の浮気を疑う歌を詠んでいます。か~な~り、魅力的な女性だったのかな?・・・しかし『家集』は自選の可能性がかなり濃いのです。だったら衛門は何を訴えたかったのかな。・・若い頃はすごくもてたのです!という事かな?)

天延二年(九七四)~貞元元年(九七六) 十代の終わりごろ? 姉妹に通って来ていた藤原道隆が来なかったので、姉妹に代わって歌を詠んだ?

長保三年(一○○三) 四十台半ば頃 夫・匡衡が尾張守になったのに従い、尾張に同行。

寛弘六年(一○○九) 夫・匡衡が尾張守になったのに従い、尾張に同行。

長和元年(一○一ニ) 五十代半ば頃 夫と死別。数年後出家。

長元元年(一○三三) 七十代半ば頃 倫子七十賀の屏風歌を召される。

同八年(一○四○) 八十代前半 関白左大臣家歌合に詠進。

長久二年(一○四一) 八十代前半 弘徽殿女御歌合に詠進。

<エピソード>
*『紫式部日記 48段』
中宮様や道長は、赤染衛門の事を「匡衡衛門」と呼んでいます。(管理人:女房名が夫とセットになってるよ~。周りから本当におしどり夫婦だと思われていたのですね。実際そうですけれど。)
歌は格別に優れていると言うのではありませんが、実に由緒ありげで、歌人だからといって何事につけても歌を詠み散らすという事はありませんが、世に知られている歌はみな、ちょっとした折の歌でも、それこそこちらが恥ずかしくなるような詠み振りです。

*公任の上表文作成に苦慮する夫に助言した話(原典未確認。『平安時代史事典』による。)

*挙周の病平癒を祈って住吉に歌を奉り効を得た話 『古今著聞集176』
大江挙周、和泉守の任が解けてから、病になった。住吉の御祟りであるという事を聞いて、母・赤染衛門は、
「かはらむと いのる命は おしからで さてもわかれんことぞ悲しき」
と詠んで、みてぐら(御幣)に書いて住吉に奉ったならば、その夜の夢に、白髪の老翁がこの幣を取るのを見て、病が治った。

同じ話は、『赤染衛門集』にもあり。落ちまではかいていませんが。

*夫の親族の和泉式部と歌をやり取りしていた。『赤染衛門集』
*清少納言とも親交があった。『赤染衛門集 157』

*藤原隆家が女をめぐって暴力沙汰を起こしたとき、その女にしれっと和歌を送って、隆家に和歌で反撃されたお話が、『赤染衛門集』にあります。
→直接の親戚ではないのに、こんな事にさりげなさを装って首を突っ込んでくるなんてかなりの好奇心の強いおばちゃん!隆家もかなりいらいらした口調で歌を返しているのが何だかかわいいわ。まだまだ青いな~という感じ。

面白いので下に引用します。

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隆家の中納言のおぼしける女に、男しのびて文やりたりけるを、聞きつけて「使ひを捕らへて打ちなどして、文をば取りて破(や)りすてられたり」とききて、女のもとにつかはしし

385 いかなりし あふせなりけむ あまのがは ふみたがへても さわぎけるかな by赤染衛門
(訳:どのようなお二人の仲なのでしょう。手紙を持ってくる先が違っていたというだけで大騒ぎになるなんて。)
(管理人:衛門は隆家の女が間男をしていて、それが隆家に見つかって間男の使いが懲らしめられたという事実を知っていながら空とぼけてこんな歌を当事者に詠みかけています。すごい好奇心。今ならさしずめ梨/本さんレベルの積極性。「逢瀬」の「瀬」は「天の川」にかけているそうです。また「ふみ」は「文」と「踏み」をかけています。)

かへし、中納言(隆家)

386 そらごとよ ふみたがへず あまのがは さしかづきてぞ かたうたれにし
(訳:嘘ですよ。手紙は間違えてはおりません。(使者は)手紙を届けたご褒美のかづけものをいただいて肩を打たれたのです。)
(管理人:うっせーよ、このおばはん!これが真実じゃ~!という雰囲気で女に代わって歌を返す隆家。キャラ立ってますね~。
一応、「そらごと」の「空」は、「嘘」の意味と「天の川」にちなんだ縁語をかけているそうです。こちらも、「ふみ」も「文」と「踏み」をかけています。)


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<和歌>
やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月をみしかな 『後拾遺集・恋ニ・680』

参考:『千人万首』「赤染衛門」、『平安時代史事典』赤染衛門、『袋草紙』136頁、『紫式部日記』、『和歌文学大系 赤染衛門集』本文、解説
2008.10.15 葉つき みかん 

春道列樹(はるみちのつらき)

*生没年 ?~920 延喜十年(910)に文章生となっているため、享年は20代か。
*父:雅楽頭 新名 *母:未詳 
*春道氏は物部氏の末流。(「右京人因幡権掾正六位上 物部門起 賜姓 春道宿禰『三代実録』貞観六年五月十一日条)
*『古今和歌集』3首、『後撰和歌集』に2首入選。
*『古今』撰者時代の歌風を代表する歌人。

<略歴>
延喜十年(910)文章生→大宰大典

延喜二十年(920)正月 壱岐守。任地に向かう前に死去。

参考:『平安時代史事典』「春道列樹」、『千人万首』「春道列樹

源 等(みなもとのひとし)

<基本データ> *平安時代中期の官人・歌人。
*生没年:元慶四年(880)~天暦五年(951)享年 七十二歳
*嵯峨源氏。嵯峨天皇の曾孫。一世源氏 弘の孫。
*父:中納言従三位 兼 民部卿 侍従 源希の二男。
*娘:藤原敦忠妻(助信母)
*『後撰集』4首入集。

<年表>

昌泰二年(899)一月十一日 二十歳 近江権少掾

昌泰四年(901) 三月十五日 二十二歳 主殿助(宇多院御給)

延喜四年(904) 二月二十七日 二十五歳 従五位下「叙爵」(朱雀院御給臨時 一人之を叙す)

延喜五年(905)四月五日 二十六歳 大蔵少輔

延喜七年(907) 一月十三日 二十八歳 三河守

延喜十二年(912)一月七日 三十三歳 従五位上 一月十五日 丹波守

延喜十六年(916) 一月一日 三十七歳 内匠頭

延喜十七年(917)一月一日 三十八歳 侍従 一月二十九日 美濃権守

延喜二十二年(922) 十月二十五日 四十三歳 大蔵大輔

延喜二十三年(923) 一月十二日 四十四歳 備前権守 二月二十八日 正五位下 十月 左中弁

延長七年(929)九月 五十歳 主殿頭

延長八年(930)一月二十九日 五十一歳 従四位下 大宰大弐

承平七年(937)三月八日 五十八歳 弾正大弼

天慶二年(939)十二月二十七日 六十歳 山城守
天慶三年(940)十二月六日 六十一歳 兼 勘解由長官

天慶六年(943)一月七日 六十四歳 従四位上

天慶八年(945)十一月二十五日 六十六歳 右大弁 → 実務官僚のトップに!

天慶九年(946)二月七日 六十七歳 兼 勘解由長官 四月二十五日 昇殿

天暦元年(947)四月二十六日 六十八歳 参議 従四位上 右大弁長官

天暦五年(951)正月 七十二歳 従四位上→致仕 三月 死去

 
※生涯の終わりまで実直に勤め、実務完了のトップ、右大弁まで上り詰め、朝廷の信頼も厚かったのでしょう、勘解由(註1)長官も兼ねていました。晩年近くなって昇殿。叩き上げの実務官僚の生涯を送ったという真面目な印象を持ちます。

●註1:「勘解由使(かげゆし)」令外の官の一。平安時代、国司などの官吏が交代するとき、新任者が無事に事務を引き継いだ事を証明する解由状(げゆじょう)の審査に当たった職。平安末期には有名無実と化した。

<和歌> 「浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき」『後撰集』恋一(577)

2013年1月2日 葉つき みかん

源通親(みなもとのみちちか)

源通親(みなもとのみちちか)

父、源雅通
母、美福門院(または八条院)女房藤原行兼女(藤原隆家流)


1149年誕生。
保元三年(1158)に叙爵しました。
初めは高倉天皇の側近として親しく仕えました。
仁安三年(1168)安徳天皇立太子の時に、平家に接近し、平教盛女を娶りますが、平家の都落ち以降は、平家を見捨てました。後白河院に接近しました。

源平争乱後は、後白河院の近臣として鎌倉幕府寄りの九条兼実と対立しました。

源平争乱後は、後鳥羽天皇の乳母である高倉範子の夫となり、養女の在子(承明門院)を後鳥羽天皇に入内させ、生まれた皇子(土御門天皇)を天皇の位に就けて、クーデターにより九条兼実派を追放して、朝廷で絶大な権力を振るいました。

晩年には、在子との密通も噂されました。

建仁二年(1202)権力の絶頂の時、54歳で頓死しました。

和歌が得意で、勅撰集にも歌が選ばれました。また、文才もあり、若い頃親しく仕えた高倉天皇を偲んで、「高倉院厳島御幸記」「高倉院升遐記」を書きました。

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「公卿列影」では、メタボな伊○院光に似ているおっちゃんに描かれています。私は伊○院さんは好きですし、頭の良い人だと思っていますので、通親も頭のいい人だったと思っています。

そして、若い娘も魅了するほど、色気もあったのではないでしょうか。(絵師さんにその表現力がないだけで(汗))

と、言う事で、似絵の目鼻立ちを元に、20歳前後の通親さんを想像して描いてみました。

参考:「平安時代史事典」、橋本義彦『源通親』

三重采女(みえのうねめ)



古事記に登場する、5世紀の雄略天皇時代の采女。(うねめ:各地の豪族の子女から、容姿の優れた者を選んで朝廷に差し出したもの。天皇や皇族の配膳などを司る)

雄略天皇が泊瀬の大きなケヤキの木の下で宴会を催した時に、ケヤキの葉が入った盃を知らずに天皇に捧げた。天皇は怒って今にも彼女を斬ってしまおうとしたが、彼女がとっさに盃に浮いた葉をいざなぎ・いざなみが二人で鉾を海につけてかき回して作った浮き脂に見立てて、宮を褒め称える歌を詠んだ。

天皇は彼女の機転に感心して彼女の罪を許した。

額田王(ぬかたのおおきみ)
<基本データ>
*飛鳥・白鳳時代の女官、歌人 *父:鏡王 *姉:鏡女王 *娘:十市皇女(大海人皇子による) *夫:大海人皇子→天智天皇 

*生没年未詳ではありますが、『創られた万葉の歌人-額田王-』で、大化元年(645年)に15歳で元服した大海人皇子の添い臥しに上がったという考えが示されていました。この時代、添い臥しと言う制度はあったかは疑問ですが、額田王は大海人の初めの妃なので、制度としてはなかったとしても大体添い臥しの様な結ばれ方をしたと思われますので、大海人の皇子との結婚が15歳から19歳の間に行われたとすると、彼女の生年は西暦626~630年辺りと考えられます。

<年表>
*年齢は、生年を626生まれと仮定して計算しました。

斉明四年(658年) 30歳 斉明天皇の紀温泉行幸に随行し、
「秋の野のみ草刈り葺(ふ)き宿れりし宇治の宮処(みやこ)の仮廬(かりほ)し思ほゆ」の歌を詠む。

斉明七年(661年) 35歳 熟田津で、
「熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな」の歌を詠む。

天智六年(667年) 41歳 近江大津宮遷都の時、
「三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや」の歌を詠む。

天智七年(668) 42歳 蒲生野遊猟に参加し、大海人皇子と
「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る」の歌を詠み交わします。

天智十年(671)年 45年 天智天皇の崩御後、
「かからむとかねて知りせば大御船(おほみふね)泊(は)てし泊に標結(しめゆ)はましを」の歌を詠む。

天武七年(678年) 52歳 娘の十市皇女に先立たれる。

持統年間、60代になり、弓削皇子と贈答歌を交わします。これが彼女が記録に残る最後です。

<エピソード>

*大きな儀式や宴の時に必ず歌を詠むように期待された、いわゆる「宮廷歌人」の先駆者的存在だと位置づけられています。

<歌>
君待つと 我が恋ひをれば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く
参考史料:国史大事典「額田王」、梶川信行『創られた万葉の歌人-額田王-』はなわ新書、千人万首「額田王」

2003.9.30. 葉つき みかん

蝉丸

<基本データ>

*平安時代初期(9世紀後半?)の僧。*生没年未詳 *伝説的人物 *琵琶の名手と言われている。

<エピソード>

*「今昔物語」(24-23)によると、

・俗世にいるときは、宇多天皇の皇子、式部卿宮敦実親王の雑色(ぞうしき:貴人の身の回りを世話する召使)

・出家してから逢坂の関に住んでいる盲人の僧

・宮に仕えるうちに弾き覚えた琵琶の名曲「流泉」「啄木」を源博雅(「陰陽師」で、安倍晴明とコンビを組んでいる御仁。)に伝授した。

【蝉丸についての雑感】
私が幼い頃、坊主めくりで蝉丸をめくった時、「ギャー!!」と叫びました。坊主をひいてしまったショックに加えて、あの任○堂の百人一首かるたに描かれている帽子をかぶった坊さんが、なんだか生臭坊主っぽく見えて、羞恥を感じたからだと思います。蝉ちゃんには何の罪もないのに・・・。そういう経験もあって、蝉丸は私のなかで大変印象深い人物の一人に位置しています。

参考:「千人万首」蝉丸

喜撰法師(きせんほうし)

<基本データ>
*基泉、窺詮とも書く。
*宇治山に住んでいた僧という以外未詳。
*六歌仙 *百人一首
<エピソード>
古今集仮名序に、六歌仙の一人として挙げられている。

「宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、始め終り、たしかならず。いはば、秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし。
わが庵は・・・(中略)
よめる歌、多く聞こえねば、かれこれを通わして、よく知らず。」

(宇治山の僧喜撰は、言葉が不明瞭で、首尾が一貫しない。言ってみれば、秋の月を見ていたら、明け方になって雲が出てきて隠れてしまったようなものである。
中略
喜撰の詠んだ歌はあまり多くは知られていないので、あれこれの歌を通じてその特色を良く理解する事は出来ない。)
 
 
<歌>
わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり 『古今集・雑下・983』

参考文献:小町谷照彦 訳注『古今和歌集』旺文社
 
葉つき みかん 

祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)



<基本データ>

*平安後期(11世紀後半)の女房、歌人 *別称:一宮紀伊 *生没年未詳 *後朱雀天皇皇女・祐子内親王に仕える。 *父:平経方説あり。しかし年齢的にあわない。 *母:祐子内親王家 小弁(散逸物語『岩垣沼物語』作者。歌人) *紀伊守・藤原重経の妻であることより紀伊と呼ばれる。 *自選家集『紀伊集』(『祐子内親王家紀伊集』『高倉一宮紀伊集』とも呼ばれる) *女房三十六歌仙

<年表>

*最初の歌合に20歳位で参加したと仮定した場合、最後の歌合は85歳位で参加したと考えられます。その仮定に基づいて、それぞれの歌合に参加した年齢を推定してみました。

天喜四年(1056) 4月 20歳位 後冷泉天皇皇后宮寛子春秋歌合に初めて参加。

康平四年(1061) 35歳位 祐子内親王家名所合に参加。

承暦二年(1078) 52歳位 内裏後番歌合に参加。

嘉保元年(1094) 68歳位 藤原師実家歌合に参加。

康和四年(1102) 74歳位 堀河院艶書合に参加。「音に聞く 高師の浜のあだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ」を詠む。

永久元年(1113) 85歳位 少納言定通歌合に参加。

※『堀河院百首』の作者。

<歌>

音に聞く 高師の浜のあだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ『金葉集』恋下・469

千人万首「祐子内親王家紀伊」、平安時代史事典「紀伊」

2006.7.8. 葉つき みかん


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