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小倉百人一首 第六十九番 能因法師

「永承四年内裏歌合に詠める」

嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり

 『後拾遺集・秋下・366』

<通釈>
永承四年(1049)の内裏歌合で詠みました。

山から嵐が吹き下ろす三室の山のもみじ葉は、竜田の川の錦なのだった。

<語句>
*永承四年内裏歌合:永承四年(1049)十一月九日に後冷泉天皇の主催で盛大に行われた歌合。
宮中では六十年ぶりのもの。能因の題は「紅葉」

*嵐:山から吹き下ろす風

*三室の山:「三諸(みもろ)の山」とも言う。大和国(奈良県)生駒郡斑鳩町にある神南備山(かんなびやま)のこと。
「みもろ」とは、本来神が降臨して宿る所(神社)の意味で、他にも同名の山がある。

ここでは龍田川に近いことから神南備山であると考えられる。紅葉の名所。

*竜田の川:大和国生駒郡を流れる川。三室の山の東のふもとを流れる。古来紅葉の名所として知られる。

*錦なりけり
「錦」:数種の色糸で模様を織り出した厚地の織物。嵐に吹き散らされた三室山の紅葉が、竜田川に浮かんで流れている情景を「錦」に見立てた表現。
「なり」:断定の助動詞「なり」の連用形
「けり」:今初めて気が付いたという感動を表す。

<参考歌>
竜田川 もみぢ葉流る 神なびの 三室の山に しぐれ降るらし『古今集』(秋下・284・読人しらず)

<略歴>
*生没年:988~没年不詳
*俗名 橘永愷(たちばなのながやす)
*歌、特に歌枕に異様に執心した。
*著書『能因歌枕』

参考『原色 小倉百人一首』(文英堂)

2016.1.18. 葉つき みかん
2016.11.13 解説完了

小倉百人一首・百人秀歌

現代の日本の中で一番身近な古典である、百人一首。100の和歌の小箱の中に、100人の生き様が詰まっています。和歌から読み取れる情景を描いた自作イラストに、歌の解説、当時の時代背景、歌人の略歴(クリック別窓)、歌にまつわるミニストーリー(最近更新したものに限ります)などの文章をつけました。

ライフワークの一つですので、気長にお付き合いください。

歌人と歌の解説を作成するにあたり、「千人万首(よよのうたびと)」というサイトを参考にしております。番号順(ほぼ時代順)完成したものには、リンクがはられています。

※「百人一首について」

********************************************************
1~10
1番 天智天皇  2番 持統天皇   ストーリー 略歴 3番 柿本人麻呂  4番 山部赤人  5番 猿丸大夫
6番 中納言(大伴)家持  7番 安倍仲麿  8番 喜撰法師  9番 小野小町  10番 蝉丸

11~20
11番 参議(小野)篁  12番 僧正遍照  13番 陽成院  14番 河原左大臣(源融)  15番 光孝天皇
16番 中納言行平  17番 在原業平  18番 藤原敏行 朝臣  19番 伊勢  20番 元良親王 

21~30
21番 素性法師  22番 文屋康秀  23番 大江千里  24番 菅家(菅原道真) ストーリー 25番 三条右大臣(藤原定方)
26番 貞信公(藤原忠平) ストーリー  27番 中納言(藤原)兼輔  28番 源宗于 朝臣  29番 凡河内躬恒  30番 壬生忠岑 

31~40
31番 坂上是則  32番 春道列樹  33番 紀友則  34番 藤原興風  35番 紀貫之
36番 清原深養父  37番 文屋朝康  38番 右近  39番 参議(源)等  40番 平 兼盛 ストーリー

41~50
41番 壬生忠見  42番 清原元輔  43番 権中納言(藤原)敦忠  44番 中納言(藤原)朝忠  45番 謙徳公(藤原 伊尹)
46番 曾禰好忠  47番 恵慶法師  48番 源重之 ストーリー  49番 大中臣能宣  50番 藤原義孝

51~60 
51番 藤原実方朝臣  52番 藤原道信朝臣  53番 右大将(藤原)道綱母 ストーリー  54番 儀同三司母(高階貴子)  55番 大納言(藤原)公任
56番 和泉式部  57番 紫式部  58番 大弐三位(藤原賢子)  59番 赤染衛門 ストーリー  60番 小式部内侍
 ストーリー
61~70 
61番 伊勢大輔  62番 清少納言  63番 左京大夫(藤原)道雅 ストーリー  64番 権中納言(藤原)定頼 ストーリー  65番 相模
66番 前大僧正行尊 ストーリー 67番 周防内侍  68番 三条院  69番 能因法師  70番 良暹法師 

71~80
71番 大納言(源)経信 ストーリー 72番 祐子内親王家紀伊  73番 権中納言(大江)匡房  ストーリー  74番 源俊頼 朝臣 ストーリー 75番 藤原基俊
76番 法性寺入道前関白太政大臣(いちご関白・藤原忠通) 77番 崇徳院  78番 源 兼昌  79番 左京大夫(藤原)顕輔  80番 待賢門院堀河

81~90
81番 後徳大寺左大臣(藤原実定) ストーリー  82番 道因法師  83番 皇太后宮大夫(藤原)俊成  84番 藤原清輔 朝臣  85番 俊恵法師
86番 西行法師  87番 寂蓮法師  88番 皇嘉門院別当 ストーリー  89番 式子内親王  90番 殷富門院大輔 

91~100
91番 後京極摂政前太政大臣(藤原良経)  92番 二条院讃岐 ストーリー 93番 鎌倉右大臣(源実朝)  94番 参議(飛鳥井)雅経 95番 前大僧正慈円
96番 入道前太政大臣(藤原 公経)  97番 権中納言(藤原)定家  98番 従二位(藤原)家隆 ストーリー  99番 後鳥羽院  100番 順徳院

2016年11月12日時点 67名完成。
********************************************************

*このページに掲載されたイラスト・文章の著作権は 葉つき みかん に所属します。無断転載、無断引用、商業的利用はお断りいたします。

(All rights reserved.)


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(クリックすると拡大します)

小倉百人一首 第87番 寂蓮法師(じゃくれんほうし)

村雨の 露もまだひぬ 真木の葉に 霧立ち上る 秋の夕暮れ (『新古今集』秋下・491)

<通釈>
降りすぎて行った村雨の露もまだ乾いていない真木の葉のあたりに、霧が立ち上ってくる秋の夕暮れであるよ

<語句>
*村雨:にわか雨。特に、秋から冬にかけて断続的に激しく降る雨のこと。

*露:村雨の残したしずく。

*ひぬ:上一段動詞「干る」の未然形「ひ」+打消しの助動詞「ず」の連体形「ぬ」

*真木:杉・ヒノキ・槙などの常緑樹の総称。なので背景の林が青っぽいのです。

*霧:秋の景物。同じ自然現象であるが、平安時代以降、春の物を「霞」、秋のものを「霧」と呼んだ。

*立ち上る:「立つ」「のぼる」の動詞を複合させて、ほの白い霧が静かに這い上ってくる感じを強調する。

*秋の夕暮れ:平安朝の和歌では、秋は寂しさのつのる季節。夕暮れも物思いをさせる時間帯とされる。体言止め。

<解説>
*露の乗る葉にクローズアップ→遠景に視点が流れる。

*区切れがなく、すべて結句の「秋の夕暮れ」に集約していく。


<略歴>
*俗名は藤原定長。
*生没年 1139?~1202 享年 63歳?
*大原の三寂の一人。
*『新古今集』の撰者の一人。
*俊成の養子。

参考:原色 小倉百人一首(文英堂)

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(クリックすると拡大します)


小倉百人一首 第七十六番 法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)
「海上の遠望」

わたのはら 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波(『詞花集・雑下・382』)

いちごが大好きいちご関白こと藤原忠通のイラストです。彼は悪左府 藤原頼長の異母兄でもあります。
訳は「大海原に舟を漕ぎ出して眺め渡すと、雲と見まごうばかりに沖の白波が立っていることだ」
イラストにしてみたらすごく雄大な景色を詠んでいました。

これは『詞花集』の詞書によると、崇徳天皇の御前で、「海上の遠望」という題で詠んだ題詠の歌だそうです。
文様は八條先生のCD-ROM版を使用しました。
畳の縁の文様は、大臣なので、大紋高麗縁です。

【通釈】


葉つき みかん 2016年1月18日

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小倉百人一首 第三十二番 春道列樹(はるみちのつらき)

志賀の山越えにてよめる

山川(やまがわ)に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり(古今303)

【通釈】山中の谷川に風がかけたしがらみは、実は流れようとしても流れきれない紅葉であったよ。

ここまで

【語釈】
*「志賀の山越え」:京都の北白川から比叡山・如意が岳の間を通り、志賀(大津市北部)へ抜ける道。天智天皇創建になる崇福寺を参詣する人々が往来した。
崇福寺跡 http://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/3909
*「山川(やまがわ)」:山中の川。谷川。「やまがわ」と読む。「やまかわ」と読むと、「山と川」の意味になる。
*「風のかけたるしがらみ」:「しがらみ」は「柵」と書く。流れをせき止めるために、川の中に杭を打って、竹などを横に編んだり結びつけたりしたもの。
参考ページ→『思考の部屋』http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/ec79ad4f351df07c639fed6ec8b0bc52
「風」を擬人化している。
*「流れもあへぬ」 流れようとしても流れない。風に散った紅葉が川にしがらみをなしている情景。

<感想>
平易な調べの中に複雑な技法を何重にも織り込んでいる歌です。この歌を見ると、色鮮やかな紅葉が川の底などに引っかかってなかなか流れない目に鮮やかな状況を思い浮かべてしまいます。
この方は若くして亡くなったそうですが、文章生を経て、壱岐守になっているので、かなり頭脳明晰な方だったのではと思います。
それでいてこんなに優しく色彩豊かな歌を詠まれるなんて、とても気になる存在です。
余り政治的な事績は残されていませんが、勅撰集に僅かに残された和歌が存在感を放つ静かな歌人です。
そういう人をきちんと掬いあげて百人一首に採用し、現在にも春道列樹さんの息吹を伝えてくれた藤原定家さんに感謝です。

<略歴>

<基本データ>
春道列樹(はるみちのつらき)

*生没年 ?~920 延喜十年(910)に文章生となっているため、享年は20代か。
*父:雅楽頭 新名 *母:未詳 
*春道氏は物部氏の末流。(「右京人因幡権掾正六位上 物部門起 賜姓 春道宿禰『三代実録』貞観六年五月十一日条)
*『古今和歌集』3首、『後撰和歌集』に2首入選。
*『古今』撰者時代の歌風を代表する歌人。

詳しい略歴はこちらから。


参考:鈴木日出男 他『原色 小倉百人一首』(文英堂)、千人万首「春道列樹」

2015年6月29日 葉つき みかん
2016年3月27日 解説完了


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小倉百人一首 第九十八番 従二位家隆(藤原家隆)

寛喜元年女御入内屏風に

風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みぞぎぞ夏の しるしなりける 『新勅撰集・夏・192』

<通釈>
寛喜元年女御(九条道家女、(立+尊)子)入内屏風に

風がそよそよと吹いて楢の葉が揺れる、(上賀茂神社の)ならの小川での夕暮れは、まるで秋のようだが、水無月祓のみそぎだけが、夏である事の証拠なのだったなぁ・・

<語句>
*「ならの小川」:京都府北区の上賀茂神社の中を流れる御手洗川の事。毎年、この川で、「水無月祓」が行われている。葵祭で、斎王代が、禊をする川でもある。
「なら」は、「ならの小川」の名と、「楢」の木をかけている。

*「みそぎ」:河原などで、水によって身を清め、罪や汚れを祓い除く事。「水無月祓=夏越の祓」を指す。水無月祓は、陰暦六月三十日(暦の上では夏最後の日)に行われる神事で、その年の上半期の罪や汚れを祓い清める。西暦2008年の陰暦6月30日は、太陽暦7月31日付近です。


<解説>
爽やかな涼しい風が吹き抜けていく様な、それでいて神事の厳粛な雰囲気をまとった歌です。

清涼感と優しい雰囲気をまとっている歌は、家隆さんの歌の特徴だと思います。それがいかんなく発揮されているシンプルでありながら流れの美しい素敵な歌です。

私も、サイト開設当初、真剣に百人一首の歌をイラスト化しようとした時から、この歌が気に入って、何度も初夏が来る度に作品にチャレンジしてみましたが、気に入った上品な様子の家隆殿が描けない・・・。今回、苦節(?)七年目にして、ようやく描けました。その間にいろいろ百人一首歌人や、平安後期歌壇の事を勉強しました。家隆さんは、最低この位の準備期間は必要な程の大歌人さんだと分かりました。

この歌は、承久の乱後、順徳院の子であった仲恭天皇が廃位され、その後を受けて即位した後堀河天皇(後鳥羽院の兄である後高倉院の息子)のもとに、前関白・九条道家(九条兼実の孫・後京極良経の嫡子)の娘、(立+尊)子が入内する時に詠まれました。入内の際には、月次屏風と言う調度を支度します。その屏風は、年中行事の絵を描き、それに相応しい歌を添えるというものです。この歌は、六月の禊の絵の横に添えられたものです。上賀茂神社の夏越の祓については、「上賀茂神社」のサイト(6月・水無月の行事)を参照してください。


話は変わりますが、『百人一首』の原型となったといわれる『百人秀歌』で、藤原定家は自分の「来ぬ人を・・・」の歌(九十九番目)と家隆のこの歌(百番目)とをセットにしています。(管理人は、『百人秀歌』は、藤原定家が選んだという前提に立っています。)

『百人秀歌』は、「やまとうた」の記述によると、「配列は違いが大きく、百人一首が時代順を優先しているのに対し、百人秀歌は二首一対の歌合形式に比重が置かれていると見られる。」という事です。私も実際に見てそう思います。だから、定家は、「自分と歌合をするに値するのは家隆さんしかいない!」として彼を選んだのでしょう。

こんな配列を見てしまうと、『今物語』のエピソード(定家と家隆が当代最高の歌人を聞かれた時に、お互いがお互いの詠んだ歌を挙げたという話)といい、定家が『新勅撰集』で家隆の歌を最多で採っている事と言い、定家の家隆への愛―歌人としての才能を尊敬し、人間的にも尊敬している―をひしひしと感じます。


<本歌>
八代女王『古今六帖』『新古今集』
みそぎするならの小川の河風に祈りぞわたる下に絶えじと
(訳:『千人万首』八代女王による
禊ぎを行なう楢の小川の川風に吹かれながら祈り続けています。二人の仲が人に知られぬまま絶えないようにと。)

源頼綱『後拾遺集』
夏山のならの葉そよぐ夕暮は今年も秋の心地こそすれ
(訳:『千人万首』源頼綱より 
青葉繁れる夏の山―楢の葉をそよがせて風が吹く夕暮は、「今年ももう秋だ」という気持ちがするのだ。)

<参考歌>
源経信『経信集』
のどかなる風のけしきに青柳のなびくぞ春のしるしなりける

藤原教長『教長集』
風そよぐならの葉かげのこけむしろ夏を忘るるまとゐをぞする

<主な派生歌>
年月をすつるしるしはみそぎ川夏こそなけれ水のしら波(松永貞徳)

風わたるならの小河の夕すずみみそぎもあへずなつぞながるる(小沢蘆庵)

<参考>
2007年に、この歌の取材の為に「上賀茂神社・夏越の祓」に行った時の写真です。
 
ならの小川

夏越の祓 人形(ひとがた)流し


<ミニストーリー>

今回はいつも以上に想像を交えてしまいました。家隆と定家が若いとき、二人の間にこんな出来事があったのかなー、あったらいいなーと思ってかきました。

**************************************

承久の乱で後鳥羽院が隠岐に流されてから八年後の寛喜元年(1229)。

京、従二位藤原家隆の邸で―

「前関白・九条道家殿から御息女入内の際に屏風に書く歌の依頼が届きました」

息子・隆祐の声を聞き、壬生二品・藤原家隆は文机から顔を上げた。

家隆は七十ニ歳。既に真っ白になった鬢を綺麗に撫でつけ、しわはあるけれども白くてすべらかな蝋の様な肌をしている。大きく色素が薄い透き通るような瞳で隆祐を見た。

「どういたしましょうか。お受け致しますか?」

家隆はほんの少しの間思案するように空に視線を飛ばした。そしてすぐ、柔らかく微笑した。

「当然だ。私は道家殿の御祖父の月輪関白殿(九条兼実)、お父上の後京極摂政殿(九条良経)に大変お世話になった。お声をかけていただくだけでも大変ありがたいことだ。」

隆祐は、ちょっと驚いたように目を見開いた。が、すぐに我に返った。
「はっ、かしこまりました。」

隆祐が道家殿からの使者に承諾のお返事を告げに走って行く音を聞きながら、家隆は瞳を閉じた。

まぶたの裏には、後鳥羽院から勅勘をこうむる直前の定家の顔があった。

(定家・・・。そなたが道家殿に進言したのか・・・?)

道家殿の姉・立子殿所生の九条廃帝(仲恭天皇)が承久の乱敗北により即位後、八十一日で廃された。

帝の外戚となる夢破れた道家殿が、今度は帝の外祖父となる勝負を掛けている(立+尊)子様入内。
その為のお支度である月次(つきなみ)屏風の準備も気合が入っているであろう。

屏風絵自体も、その絵に歌を添える歌人も一流でなくてはならない。

なぜ、私に声をかけた?定家・・・。

定家の妻は関東申継の地位にあり、都で勢威を振るっている西園寺公経殿の同母姉。累代でお仕えした九条家も当主の道家殿が公経殿の婿であるため、政治の要を担っている。

乱の前は後鳥羽院の勅勘をこうむって閉門していたが、今はそれが幸いし、公経殿、道家殿の後援を受けて、歌壇の中心人物となっているようだ。近々、帝(後堀河帝)より勅選集の選定を命じられるとの噂もある。

きっと今回の屏風の歌人選定にも定家がかなりの程度関わっているだろう。



それに引き換え、私はいまやほとんど世捨て人の境遇。

後鳥羽院歌壇華やかなりし頃は、私はもったいなくも院にお引き立ていただき、後京極摂政・九条良経殿からは、かたじけなくも「末代の人丸」という呼び名をいただいた。・・・しかしそれも昔の話。

承久の乱で院が敗北し、隠岐に配流された後でも、私は院をお慕いし続けて、消息を送っている。自然、私は鎌倉から疎んぜられ、歌壇の中心から離れて侘しい日々を送っている。

乱の敗北から守護・地頭の横暴も激しくなり、領地からほとんど年貢があがってこなくなっているが、私は敬愛する院への消息を絶ち、鎌倉方の公卿にすりよることはできなかった。

隆祐が私の承諾に驚いていたのも、いままでのこんな私の態度をみていたゆえだ。


あからさまに鎌倉には楯突いていないけれども、従順に従ってもいない。そんな私を、定家はどのように道家殿に推薦したのだろう。


家隆は昔、順徳天皇の内裏で行われた「冬題歌合」で、家隆の歌が天皇の御製と番えられた時、満座が天皇の歌を支持する中、一人口角泡を飛ばして家隆の歌を支持する定家の様子を思い浮かべた。

そして、私はなぜ依頼を受けたのだろう・・・。

家隆は、ふっと自嘲的に笑った。

やはり私にはまだ、晴れがましい場に出たいという欲が残っていたと見える・・・。



翌日、家隆は屏風に描かれる予定の絵の題名一覧を眺めていた。そして、ふと一カ所で目をとめた。

そこには「上賀茂神社 夏越の祓」と書かれていた。

家隆は遠くを見るような目付きになった。



-夏越の祓か・・・。

あれは六十年ほど前。
私が十八歳位の時、定家と一緒に上賀茂神社の夏越の祓を見に行ったな・・・。

定家は十四歳。ようやく父君の俊成殿から本格的に歌の手ほどきを受け始めた頃だった。私も一年ほど前に舅の寂蓮の紹介で、俊成殿の門下に入ったばかり、ほとんど同じ位から歌人としての修行をはじめていた。

そのころから既に大御所の歌人であった俊成殿に、作歌の参考になるから、と定家と一緒に夏越の祓を見に行くことを勧められた。

私は即座に承諾の返事をした。俊成殿は私を連れて定家の部屋に行った。定家は内裏から帰り、涼しそうな水色の紗綾の狩衣に着替えた所だった。

「今日は上賀茂神社で夏越の祓がある。作歌の助けになるだろう。見に行ってはどうか。」

俊成殿は幼子に対するように定家に話しかけた。五十歳を過ぎても若いときのまま端正な顔も、定家の前ではとろけてしまいそうに見えた。

四十近くなって生まれた子はかわいくて仕方がないのだな・・・。私は心の中で微笑した。

「嫌だ。暑いじゃないか。それにまだ虫が出る。蚊に刺されたらかゆいよ。」

まだ父君に甘えたいさかりの定家は口をとがらした。

俊成殿は困った顔をして、

「せっかく家隆殿もついて行ってくれるのに。」

定家はぱっと顔を輝かせた。
「え、ホント?じゃあ行く。」

兄弟はたくさんいるがすべてかなり年長で、実質一人っ子のように育てられた定家は私を兄のように慕ってくれていた。
嬉しそうに私と一緒の牛車に乗り込む定家を見て、私はなんだかくすぐったい気持ちを感じた。

夕暮れの中、牛車の中で定家は、今日内裏でどんな面白い体験をしたかを熱っぽく話し続けた。実は私と定家は同じ侍従として帝に仕えている。・・といっても、私は定家より一年後に侍従になったので、定家は先輩でもあるのだ・・・。


上賀茂神社につくと、従者が川に流す紙の人形(ひとがた)を取って来た。
定家と私は裏に自分の名前を書き入れた。
あと数刻ではじまる儀式で、最後にならの小川に流し、この半年で身についたケガレを流すのだ。

私は文字を書いている定家をのぞき込んだ。
「丸っこい字ですねぇ。」
すばやく自分の字を袖で隠して、定家は上目使いで私をにらんだ。私はほほ笑みながら、手を出した。
「神主殿に渡しに行きます。お渡しください。」
「ぼくが渡しに行く!」
定家は私の手から人形を抜き取って社殿の方へ走って行った。


私は、牛車から降りて、定家が戻ってくるのをゆっくりと待っていた。

松明を持った従者を従えて定家が戻ってきた。
「あちらに、大きな茅の輪があるよ、くぐりに行こう!」

私と定家と、従者は、直径が人の高さほどもある、わらで出来た大きな輪っかを作法通りにくぐった。
「水無月(みなつき)の 夏越しの祓する人は ちとせの命 のぶというなり」という歌を心で唱えながら、左まわり、右まわり、左まわりで輪をくぐった。

そうこうしているうちに真っ暗になり、人形流しの時間が近づいたので、私たちは、ならの小川の方に歩いていった。
もうたくさんの人々が集まり、私達が入り込む隙間はない。が、御子左家の従者達はしっかりしたもの、牛飼い童ともう一人の従者が、私たちの場所をとっておいてくれて、私たちは一番前で見ることができた。

後で並んでいた子供が恨めしそうな目で見ていたので、私はその子を膝の前に引き寄せた。定家はちょっとすねたような顔をした。

川の流れる音が耳に心地よい。暑かった夏が嘘の様に耳元を涼しい風が通り抜けていく。

「結構涼しいね。来てよかった。」
定家はつぶやいた。

川の中に立てられた、四本の篝火に火が点された。風があるので、気持ちよいほど燃える。篝火の明かりが川の流れに映って幻想的な情景を作り出した。
橋の様に川に渡された建物に、白い浄衣を着た神職が現れて、楽の音が鳴りはじめた。

神職たちは身を乗り出して、私達が名前を書いた紙の人形を川に流していく。一つ一つの人形が、逆らいようのない運命に翻弄される私たち人間の様に思えた。

「みそぎする ならの小川の河風に 祈りぞわたる 下に絶えじと」
つぶやいた定家の声に気づいた私は、声をかけた。
「八代女王の歌ですね。『古今六帖』の。」
「最近、父上に言われて『古今六帖』を暗記したんだ。『ならの小川』を見ていて、思い出した。」

「私の今の気持ちは、『後拾遺集』源頼綱の『夏山のならの葉そよぐ夕暮は今年も秋の心地こそすれ』という感じです。」

定家は風を感じるようにうっとりと目を閉じた。
「そうだ・・・。こんなに涼しいからもう秋みたいに思えるよ・・・。」
「でも、水無月の最後の日である、今日は、まだ暦の上では夏なのですね・・・。」

私たちは次々と流れてくる人形を、いつまでもいつまでもながめていた。



あれから二人で百首歌をいくつも詠んだり、歌合に参加したりして切磋琢磨した。和歌所の寄人や、『新古今集』の選者に選ばれて、かなりの時間を一緒に過ごして来た。
そして、お互いを歌人として尊敬し、認めて来た。

昔を覚えているか?定家。いや、覚えてなくても仕方あるまい。もう六十年近くも前の話だ。ただ、私はこの歌を詠みたいだけなのだ。

「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」



一月ほどたち、家隆は夏越の祓の歌が女御入内の屏風歌に採用された事を知った。

家隆は静かに微笑んで、それを知らせる文を文箱にしまった。


(終)

参考:『千人万首』「藤原家隆」、『平安時代史事典』「藤原家隆」「藤原定家」、『人物叢書 藤原定家』(吉川弘文館)、『今物語』(講談社学術文庫)

2008.6.15  葉つき みかん  


<略歴>
<基本データ>
*平安後期・鎌倉初期の公卿・歌人 *生没年:保元三年(1158)~嘉禎三年(1237) 享年:八十歳
*通称:壬生ニ品(みぶのにほん)、壬生二位、坊城 *後京極摂政・九条良経に「末代の人丸」とたたえられる。
*良門流 *藤原兼輔の子孫。 *祖父・白河院近臣・藤原清隆 
*父:猫間中納言・藤原光隆 *母:藤原実兼女(尊卑文脈においては、参議・藤原信通女とのこと。) 
*兄:雅隆 *妻:寂連女 *子供:隆祐、土御門院小宰相 *歌の師匠:藤原俊成 *家集『壬ニ集』(『六家集』の一) 
*『千載集』以下の勅撰集に採られる。*『新三十六歌仙』 *『百人一首』
詳しい伝記はこちらをクリック。

参考:『千人万首』「藤原家隆」、『平安時代史事典』「藤原家隆」

2008.6.15.  葉つき みかん  

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小倉百人一首 第九十六番 入道前太政大臣(藤原/西園寺 公経)

「落花を詠みはべりける」

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで  ふりゆくものは わが身なりけり

(『新勅撰集』雑一・1052)

【通釈】

「落花について詠みました」

花を誘って散らす嵐の吹く庭に、雪の様に花びらが降り注いでいる・・・しかし、本当に古びていく(古る:ふる)のは花びらではなくて、我が身なのだなぁ・・・・

【語句】

*「花」:「桜の花」

*「花」、「嵐」共に擬人化されている。

*「雪ならで」:「雪ではなくて」落花を雪に見立てている。落花を雪に、反対に雪を落花に見立てる表現は『古今集』以来、多く見られる。

*「ふりゆく」:「(花びらが)降り行く」と「(我が身が)古り行く」との掛詞。

*「けり」:今はじめて気付いたという感動を表す。ここでは、自分の老いに初めて気付かされた気持ちを表す。

【本歌】

 よみ人しらず「古今集」  世の中にふりぬる物は津の国のながらの橋と我となりけり
【解説】桜が風に吹かれて舞い散る美しすぎて眺めていると魂があくがれでてしまう様な景色から一転、作者の心の内に引き入れられ、誰の上にも訪れる「老い」について考えさせられる、魂の中を見詰めるような緊張感を持った秀歌です。

この歌の出典・詠作年は不明との事なのですが、公経は承久の乱後、栄華を手にしてから少し経った後、貞応二年(1223)、53歳の時、人臣として最高の位である従一位をもらいました。私はこの歌がその年の春に詠まれたものと仮定してイラストを描きました。

公経は、承久の乱の時に命をかけて鎌倉方に内通し、乱後は幕府の後ろ盾によって朝廷で異例の出世を遂げ、位人臣を極めました。

きっと公経はその栄華に酔っていたでしょう。けれど、ふと自分の体の衰えを感じた時に、我に返り、庭で激しく散る桜を見て、命の儚さを感じ、この歌を詠んだ、と想像してみました。

実は定家が編纂したのは、「百人一首」と少し内容が違う、「百人秀歌」です。「百人一首」は定家の死後、息子の為家が一条帝皇后定子など三人を削って、その代わりに後鳥羽院と順徳院を加えて再編集したものです。

そして、定家の編纂した「百人秀歌」の最後はこの歌で締めくくられていました。定家の生活が晩年少しましになったのは、妻の弟の公経さんのおかげもあったのかもしれません。

絵についてですが、50代にしては、少し目を可愛く描きすぎてしまったかもしれません・・。(^_^;) いくら肖像画(『中殿御会図』のもの。旧版『人物叢書 藤原定家』247頁で見る事ができます)が可愛く描かれていたとはいえ・・。

 
【主な派生歌】

吹きさそふ嵐の庭の花よりもわが身世にふる春ぞつもれる(正徹)

一とせの残る日数は雪ならでつもりもあへず年ぞくれける(後柏原天皇)

【略歴】

<基本データ>
*鎌倉時代初期・中期の公卿  *生没年:承安元年(1171)~寛元二年(1244) *通称:一条相国、西園寺入道太政大臣など 
*太政大臣公季の子孫(閑院流) *父:内大臣・実宗 *母:持明院・基家女(藤原頼宗流) *平頼盛(※1)の外孫 

*子:綸子(九条道家室)、実氏(太政大臣)、実有(権大納言)、実雄(左大臣)ほか。 *妻:一条全子(一条能保と源頼朝の妹との娘)、西園寺実材(さいおんじさねき)母 

*九条良経とは、全子の姉妹を通じて相婿関係 *藤原定家は姉の夫 *勅撰集歌人 *新三十六歌仙

※1:平頼盛は、平治の乱の折、源頼朝の助命を平清盛に嘆願した池禅尼の子供。

詳しい伝記はこちらをクリック。

【装束について】かさねは白躑躅。薄紫の色が高貴で知的な彼に似合うと思い、着せました。袍の文様は、太政大臣の彼を描いたつもりなので、雲鶴。指貫は、鳥襷を使用しました。文様は全て自作です。

 

参考:千人万首「西園寺公経」、国史大辞典「西園寺公経」

2006.9.7. 葉つき みかん

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第九十五番 前大僧正 慈円(さきのだいそうじょう じえん) 

「題知らず」

おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつ杣(そま)に 墨染の袖 『千載集・雑中・1137』

【通釈】「題は不明」

身のほどもわきまえず、私は辛いこの世を生きる人々(を守ろうと)覆いかける事だ。この比叡の山に住む私の墨染めの袖を。

【語釈】*「おほけなく」:身分不相応だ。畏れおおくも。

*「憂き世」:辛い世の中

*「おほふかな」~「墨染めの袖」(墨染めの袖で覆う→倒置法):仏の功徳によって人民を守り、その無事、救済を祈る事。

*「おほふ」、「袖」は縁語。

*「杣(そま)」:「杣山(植林した材木を切り出す山)」ここでは「比叡山」を指す。

*「杣」という言葉から、比叡山の開祖、伝教大師最澄の歌

「阿耨多羅(あのくたら)三みやく三菩提(さんみゃくさんぼだい)の仏たち我が立つ杣に冥加(みょうが)あらせたまへ(新古今集・1920)」

訳:最上の悟りを持った仏達よ、私が立つ杣である比叡山に加護を与えてください。

を思い出すように意図されている。

【解説】 『千載集』が成立した頃、文治三年(1187)以前の歌。つまり30代前半の歌で、仏法によって人民を守ろうと言う強い決意を秘めた歌です。

慈円は僧の道に入ってから死ぬまで、自らの身を削った祈祷の法力で人民の幸せを実現しようと努力していました。現在の私達から見たら、ばかげた方法に勢力を注入していると思えるかもしれませんが、当時は真剣に仏法・祈祷によって国家鎮護、ひいては人民の幸福が実現できると信じられていたのです。だから、慈円の事を笑う事はできません。慈円さんはとっても真面目な人だと思います。

慈円は、五条袈裟を付け、僧剛襟を着て、指貫を履いています。そしてこの世を仏法で守ろうと墨染めの袖を広げています。数珠の色は何色がいいかな~と考え、ふと自分の持っている紫水晶の数珠を思い出し、紫色にしました。背景は比叡山のシルエットを描きました。

<主な派生歌>

今も猶わが立つ杣の朝がすみ世におほふべき袖かとぞみる(尊円親王[新千載])
ちればとて木の葉の衣袖なくはうき世の民におほひやはせん(正徹)
おほけなく思ひあがれる心かなさてもぞ袖は染色のかげ(正広)
墨染のわが衣手のゆたならばうき世の民におほはましものを(良寛)

【略歴】

<基本データ>

*平安後期・鎌倉初期の僧侶、歌人 *生没年:久寿二年(1155:保元の乱の前年)~嘉禄元年(1225) 

*謚号:慈鎮和尚 *通称:吉水僧正 

*父:法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん←長っ!)・藤原忠通 

*母:忠通家女房・加賀局(藤原仲光女) 

*兄弟姉妹:皇嘉門院聖子(崇徳天皇中宮)、覚忠、摂政・基実、松殿・基房、九条兼実、兼房 

*甥・姪:後京極摂政太政大臣・九条良経、宜秋門院(ぎしゅうもんいん)任子(後鳥羽天皇皇后)

*著書:歴史書『愚管抄』 *家集:『拾玉集』

詳しい伝記はここをクリック

2006.8.27. 葉つき みかん

千人万首「慈円」、多賀宗隼『人物叢書 慈円』吉川弘文館

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小倉百人一首 第九十三番 鎌倉右大臣(源実朝)
(『新勅撰集』では「題知らず」、『金槐和歌集』では、「舟」)

世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも『新勅撰集・羇旅・525』

【通釈】

世の中はこのまま変わらないでいてほしいなぁ・・・。波打ち際を漁師が綱手で小舟を引っ張っている様子が胸に迫ってくるなぁ・・・。

【語釈】

*世の中:現在生きている、この世の中

*常に:形容動詞「常なり」の連用形。永久不変である意味。

*もがも:終助詞。実現することの難しそうな事柄についての願望。

*な:詠嘆の終助詞。

*渚:波打ち際

*あま:漁師

*綱手:船具の一種。舟の先につけて、陸から舟を引いてゆくための引き綱。

*かなし:形容詞「かなし」の終止形。心をゆり動かされるような、痛切な感情を表す。必ずしも悲哀だけの意には限定されない。

*も:詠嘆の終助詞。

*新勅撰集:新勅撰和歌集。鎌倉時代の勅撰和歌集。貞永元年(1232)後堀河天皇の勅により、藤原定家が撰する。文暦二年(1235)成立。

【参考歌】

上二句:吹黄刀自「川の上の ゆつ岩群に 草生さず 常にもがもな 常処女にて」『万葉集(巻一・3)』
を念頭に置き、世の中は永遠不変であってほしいと率直に詠嘆。

下三句:「陸奥は いづくはあれど 塩釜の 浦こぐ舟の 綱手かなしも」『古今集』(東歌・1088)を踏まえ、海浜の光景を描く。

【解説】

この歌を見た時、源実朝が鎌倉の海岸で、引き綱を使って漁師が小舟を引っ張る作業を見守る風景が浮かびました。

目の前の長閑な風景がこのままずっと続きますように・・・!という祈りの様な歌が生み出されたのは、もしかして、実朝が遠くないうちに殺されるかもしれないという運命を感じていたからかもしれない、と思わせられます。

建保元年(1211)、和田義盛が北条義時の挑発により挙兵し、敗れ、一族が誅滅され、北条氏が最も力を持った氏族となった後から、実朝は自分の希望を押し通すようになります。

この頃から、実朝は薄々、朝廷と幕府の対立、北条氏と他の有力氏族との対立を調整する為に存在していた自分の意義が失われつつあると感じていたのかもしれません。

この歌が和田一族殲滅後に歌われたのかどうかはわかりませんが、そういう実朝を囲む背景を考えながら読むと、彼の想いが痛いほど伝わって来ます。(漁師さんからしたら、(呑気に歌詠んでないで、引っ張るの手伝ってよ~!><)と思ったかもしれませんが…。)

歌の添削を通じて交流があった藤原定家は、若くして暗殺された実朝を悼むために、穏やかな時間が少しでも長く続くことを願う様な実朝の歌を百人一首に選んだのかもしれません。

<基本データ>

*鎌倉幕府第三代将軍
*生没年:建久三年(1192)~承久元年(1219) 享年二十八歳
*父:征夷大将軍 源頼朝 *母:北条政子 *幼名:千幡
*乳母:阿波局(叔母・母の妹)
*養子:公暁(兄・頼家の息子)
*家集『金槐和歌集』
詳しい略歴はこちらから。

実朝の後ろに控えているのは無双の寵臣・東平太重胤。直垂は、『蒙古襲来絵詞』のものを参考にしました。漁師の小舟と格好は、『平家物語図典』のものを参考にしました。

参考文献:鈴木日出男 他編『原色 小倉百人一首』(文英堂)

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小倉百人一首 第九十二番 二条院讃岐(にじょういんのさぬき)

寄石恋(石に寄する恋)といへる心を

わが袖は 潮干(しおひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし『千載集・恋ニ・760』
【通釈】
「石に寄せる恋」という心を(詠みました。)

私の袖は、引き潮の時にも海中に隠れて見えない沖にある石の様に、・・・人は知らないでしょうけれ・・・、あなたへの恋に涙でいつも濡れて乾く間がありません。

<語句>
*「潮干(しおひ)」:引き潮の状態。
*「沖の石」
*「潮干に見えぬ沖の石の」→「人こそ知らねかわく間もなし」を導く序詞。潮が引くと海岸近くの石はその姿を見せるが、沖の海中深く沈んでいる石は、潮が引いてもその姿を見せない。また、常に水に漬かっているため、濡れっぱなしである。
*「人『こそ』知ら『ね』」:「こそ」は、強意の係助詞。「ね」は、打消しの助動詞「ず」の已然形で、「こそ」の結び。
*「間」:一続きの時間。
*「も」:強意の係助詞。
*本歌取り:
本歌一「わが袖は水の下なる石なれや人にしられでかわくまもなし」(和泉式部)
本歌ニ「我が恋は海人の苅藻に乱れつつかわく時なき波の下草」(藤原俊忠)

<解説>
何となく口ずさみやすい 、ゴロの良い歌でありながら、実際の情景を頭で想像してみると、目には直接見えない(何てったって石は海の底ですから)、とても観念的な情景を序詞として、涙で常に濡れている袖を表現しています。私にはどうもこの歌からは心情的な辛さは余り感じる事はできず、言葉遊びの巧みさが浮き上がって来ます。
これは、実際の恋を歌ったものではなく、題詠の歌ですから、余り情感を込めすぎて湿っぽくならないほうがいい、との讃岐の配慮でしょうか。

讃岐はこの歌により名声を得て、「沖の石の讃岐」と称されました。歌詠みとして有名な源三位頼政の娘としての面目を施しました。



<ミニストーリー>
寿永元年(一一八ニ)―高倉上皇や平相国清盛が没した次の年。
平家と源氏の合戦は一時小康状態を迎えていた。

自邸で庭に向かいながら、四十歳の讃岐は、一人静かに自分の歌を清書していた。

二十歳(はたち)の頃、二条帝に何度か御寵愛を受けた時に愛しそうに撫でられた白い豊かな頬は全く衰えておらず、薄暗い部屋の中でその面輪がぼんやりと光るように見える。その頬につややかな黒髪がほのかにかかり、陰影を形作っている。

父・源頼政と兄・仲綱が以仁王とともに平家に叛旗を翻し、宇治川で平家の大軍に簡単にひねりつぶされ、自害してから二年―

その頃、讃岐は今と同様、夫と小さな館を構えて暮らしていた。内裏女房をやめ、優しい夫と結婚し、二人の息子にも恵まれ、穏やかな幸せな生活をしていた。

父は謀反の計画を事前に讃岐には知らせていなかった。それは、五月二十二日、急に家を囲んだ平家の侍達によって知らされた。讃岐は何も分からず、泣きながら父と兄の無事を祈っていた。―しかし、十日後、二人が亡くなった事を知らされた。

女子は戦には無関係との事で何も咎めはなかった。

しかし、讃岐の中で何かが崩れてしまっていた。・・・ある日、「何か」とは、歌を詠もうと言う意欲だと気づいた。
はじめは、親兄弟をなくした悲しみのせいだと思っていた。しかし、半年、一年とたって、美しい桜や、朧月、夏草の景色を見ても、讃岐の中から何も言葉は出てこなかった。

―どうしてだろう?
今までは考えなくても自然に言葉があふれ出てきたのに?

讃岐は藁にもすがる思いで、自分が今まで詠んできた歌を書き写しはじめた。
幼い頃、父の手ほどきを受けて初めて詠んだ歌、二条天皇の内裏歌合での歌、歌林苑での歌会で詠んだ歌―

そして、歌合で詠んで大絶賛を受け、「沖の石の讃岐」という名をつけられた歌

「わが袖は 潮干(しおひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし」
を書き終わった、時―

父の温かい笑顔が讃岐の胸の中に広がってきた。

・・・そうだ。私の歌は、今まで全て父を喜ばせるために詠ってきたのだ。
今ではいくら歌を詠んでも、温かく笑って、見事な趣向だと手を叩いてくれる父はいない。
もっと上手い趣向を一緒に考えてくれる兄もいない。

そう、思い至った時、今まで何かにせき止められていたかのように胸の奥に詰まっていた感情が、目に、あふれてきた。

讃岐は文机に突っ伏して、一刻ほど泣いた。

そして、しゃんと背を伸ばして、まるで写経をするかの様に、一文字一文字、丁寧に自分の歌を清書し始めた。書くごとに、讃岐の悲しみが一つ一つ浄化されていくような気がした。

・・・父や兄が命を捨てて壊そうとした平家の世が終わるかどうかは分からない。
私には政治の事は余り分からないけれど―彼らはすべき事をした。決して無駄死にをしたわけではない。

そして、今の私にできる事は・・・父に教えられた歌の道を守り、より発展させていく。それしかできない。

讃岐は筆を硯に浸して、穂先を整え、また新しく一行を書きはじめた。

(終)


参考:『千人万首』「二条院讃岐」、『平安時代史事典』「讃岐」
2009.3.10  葉つき みかん  

<略歴>

二条院讃岐

<基本データ>
*生没年:一一四一?~一ニ一七? 享年:七十七歳頃?
*父:従三位・源頼政(高名な歌人であり、武士。以仁王とともに平家に叛旗を翻し、戦死。) 母:源忠清女。
*一門に歌人が多い。:父・頼政、祖父・仲正、異母兄・仲綱、叔母・摂政家三河、待賢門院美濃、従姉妹・宜秋門院丹後
*夫:藤原(葉室流)重頼 *子供:遠江守・重光、宜秋門院判官代・有頼
*家集『二条院讃岐集』 *百人一首 *女房三十六歌仙 
*『千載集』以下の勅撰集に七十二首入集。

詳しい伝記はこちらをクリック。

参考:『千人万首』「二条院讃岐」、『平安時代史事典』「讃岐」
2009.3.10  葉つき みかん  


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