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2020年7月~9月のお題は、後冷泉天皇皇后・藤原歓子。藤原教通と藤原公任女の間に生まれ、風雅を理解する才色兼備の女性でした。
コトバンクによる藤原歓子についての説明→★★★★


今鏡ワンドロ 4 妃とその子供編

「後一条天皇」 
第52回 中宮:「藤原威子」→ 子:「章子内親王」  「馨子内親王」 2018年10月~12月

「後朱雀天皇」
尚侍:藤原嬉子→子:「後冷泉天皇」

第53回 皇后:禎子内親王→子:「後三条天皇」 「良子内親王」斎宮 「娟子内親王」賀茂斎院 2019年1月~3月

第54回 中宮:嫄子女王」 →子「祐子内親王」 「バイ(示へん+某)子内親王」 2019年4月~6月

第55回 女御:「藤原延子」 →「正子内親王 2019年7月~9月

第56回 女御:「藤原生子」 2019年10月~12月

「後冷泉天皇」
第57回 中宮・章子内親王 2020年1月~3月

第58回 皇后・藤原寛子 2020年4月~6月

第59回 皇后・藤原歓子 2020年7月~9月

「後三条天皇」
第60回 藤原茂子(滋野井御息所) 子:貞仁親王(白河天皇)、聡子内親王、俊子内親王、佳子内親王、篤子内親王 2020年10月~12月

第61回 中宮・馨子内親王 2021年1月~3月

第62回 女御:源基子 子:実仁親王・輔仁親王  2021年4月~6月

第63回 女御:藤原昭子  2021年7月~9月


下線はお題にする予定の方々です。以下続きます・・・。

幼くして父母に死に別れ、若い頃には祖父の白河院に押さえつけられていたけれども、待賢門院と美福門院といういい女を妃にして、生を謳歌していた鳥羽天皇。そんな彼のイメージ画を描いていただきました。

鳥羽天皇

没年:保元1.7.2(1156.7.20)
生年:康和5.1.16(1103.2.24)
平安後期の天皇。堀河天皇と贈太政大臣藤原実季の娘苡子の子。
康和5(1103)年8月,堀河天皇の東宮となる。
嘉承2(1101)年,堀河天皇没により即位。
保安4(1123)年,子の顕仁(崇徳天皇)に譲位,白河上皇没後の大治4(1129)年院政を開始し,崇徳・近衛・後白河の3代28年にわたって朝政を主導した。永治1(1141)年,出家して法皇となり,法名空覚を名乗る。
天皇在位中は,祖父白河による院政の時期で,子の顕仁が,白河と待賢門院璋子との間の所生であると噂されるような状況のなか,やがて皇位継承の問題をめぐり,白河と対立を深めるようになる。
院政開始後,白河院政末期に萌芽のみられた荘園整理政策の事実上の凍結の姿勢をより明確にして,荘園の興隆を促進し,さらに,藤原忠実の政権再登用後,摂関家を院近臣として従属させるなど,独自の政策を推し進めた。
有力な院司として,藤原顕頼,藤原家成らがおり,また伊勢平氏を政権の基盤にとりこんだ。
崇徳天皇の譲位ののち,皇后美福門院得子との間の子体仁(近衛天皇)を即位させ,さらに近衛没後,雅仁(後白河天皇)を皇位につけ,崇徳上皇の反発を招いた。
これは,前代同様の皇位継承をめぐる皇統内部の対立であり,鳥羽没の直後,朝廷内を二分して争われた保元の乱(1156)の要因となるものであった。
信仰面では,御願寺の造営を盛んに行い,また熊野信仰に傾倒し,参詣は前後23回におよんだ。譲位後は鳥羽離宮を居所とし,同所に建てられた安楽寿院内の陵墓に葬られた。
院政主導の朝政および荘園公領制を確立させたという意味で,中世国家の基本秩序を完成させた天皇であったと評価できよう。
<参考文献>G87A1道雄「鳥羽院政論」(『日本歴史』425号)
(上杉和彦)

朝日日本歴史人物事典の解説
https://kotobank.jp/word/鳥羽天皇-105594

千人万首さんの記事はこちら。
引用「五十御賀過ぎて又の年の春、鳥羽殿桜盛りに、御前の花を御覧じてよませ給うける

心あらば匂ひを添へよ桜花のちの春をばいつか見るべき(千載1052)

【通釈】心があるなら、今年はいつもよりいっそう色美しく咲いてくれ、桜の花よ。このあと、再び春を見ることはありそうもないから。」

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tobain.html

うにぽちゃん @unipochan
ワンドロ=1時間キッカリで描いた鳥羽天皇です ^ω^)
#今鏡ワンドロ pic.twitter.com/J1ri6U5u4K
2015-08-22 00:06:05

廣田 @aif_0637
幼少期の鳥羽さんはほんとうにかわいらしいですね・・・
#今鏡ワンドロ pic.twitter.com/IPnNmKvIB5
2015-08-22 00:36:48

水無月理瀬 @mndk062
ワンデーどころかワンアワーにも満たないがっかりクオリティ+今鏡ネタ関係ない+そしてなによりまだ勉強不足でざっとしか知らない なのでお恥ずかしいのですが、フォロワーさん主催の今鏡ワンドロの本日のお題が鳥羽天皇だそうなので、描いてみました pic.twitter.com/onuHPT9dsb
2015-08-23 00:00:30



あおい @harukooo6v6
(さっきのブログを拝読しながら)やっぱ白河院ってウザキャラだよね…(違う)鳥羽帝と中宮璋子に早く息子が生まれますようにと凄い祈祷してそうだよね…
2015-08-19 08:22:55

あおい @harukooo6v6
母親の看病疲れで体調を崩す崇徳院が鳥羽院に「お母さんが危ないみたいです」と連絡して超特急で鳥羽院がやってくるなんて言う記述があるの…ありがとう…そんな記述が見られるの…台記…頼長…お前…やっぱ院政期の萌えを届けてくれる天使だ
2015-08-19 08:35:04

あおい @harukooo6v6
ううーん、こう、なんていったらいいんだろう、バランス調整が破綻を齎すということは、本当に平安末期って朝廷がきしんでいたんだなあ。旧来の勢力である摂関家、それに対抗する閑院流、そしてもう一度政の主導権を握りたい宮方
2015-08-19 08:55:35

あおい @harukooo6v6
やっぱ白河院デレクーウザキャラ(でれでれときどきクール
2015-08-19 09:19:09




白河天皇と最愛の妃・中宮賢子との間に生まれた「末代の賢王」堀河天皇。
管絃や和歌に造詣が深く、近臣に深く慕われていました。
今回はキッサン先生を初め、堀河天皇を描かれていた方々の掲載許可を頂けたので、喜び勇んでまとめさせていただきました!他にもまとめていいという方がいらっしゃいましたら遠慮無くお申し出くださいませ~。

堀河天皇

没年:嘉承2.7.19(1107.8.9)
生年:承暦3.7.9(1079.8.8)
平安後期の天皇。白河天皇と右大臣源顕房の娘賢子の子。諱は善仁。白河天皇の異母弟,皇太子実仁親王が応徳2(1085)年病没すると,父天皇の譲位で翌3年立太子と同時に即位。寛治3(1089)年元服。在位のまま病により崩ずる。在位期間22年。

幼少時の即位であったことから,父白河上皇が院政を行い政治の実権を握る状態ではあった。しかし,関白藤原師通や藤原通俊,さらには大江匡房らに補佐され,白河上皇との多少の摩擦はあったものの,安定した政治状況に至ったことから,後世になって末代の賢王とも称賛された。

中宮篤子内親王の影響もあって和歌を好み,自らも詠作する一方,源国信,藤原俊忠,源俊頼らの歌人たちを周辺に集め,文芸性を重視した堀河院歌壇と称されるものが形成され,『堀河院艶書合』『堀河院百首』などの後世に影響を残す斬新な試みがなされた。『金葉集』以下の勅撰集に9首の和歌が残る。

また音楽も好み,笛は源政長を,笙は豊原時元を,神楽は多資忠をそれぞれ師として学び,宮中で小規模な管絃(弦→絃に葉つき訂正)の会を繰り返し催した。その熱中ぶりは『教訓抄』『十訓抄』など数多くの説話集に逸話として残されている。

多くの臣下に敬慕され,その死は深く惜しまれたが,その崩御を悼んで描かれたのが『讃岐典侍日記』である。

<参考文献>橋本不美男『院政期の歌壇史研究』
(渡辺晴美)

朝日日本歴史人物事典
https://kotobank.jp/word/堀河天皇-134313

同じ御時后宮にて、花契遐年といへる心を、うへの男どもつかうまつりけるによませ給うける
千歳まで折りて見るべき桜花梢はるかに咲きそめにけり(千載611)
千人万首 堀河天皇より
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/horikawa.html



https://twitter.com/aif_0637/status/630382750890004480



「堀河天皇」にご参加アンドまとめを許可してくださった皆様、ありがとうございました。
たまたま新暦生誕日にワンドロを開催していておりましたことにびっくりしました。ご生誕おめでとうございます。

続きを見る


今鏡ワンドロ  1 天皇編

第一回「後一条天皇」2015年6月20日(土)

第二回「後朱雀天皇」2015年7月4日(土)

第三回「後冷泉天皇」2015年7月18日(土)

第四回「後三条天皇」2015年7月25日(土)

第五回「白河天皇」2015年8月1日(土)

第六回「堀河天皇」2015年8月8日(土)

第七回「鳥羽天皇」2015年8月22日(土)

第八回「崇徳天皇」2015年9月5日(土)

第九回「近衛天皇」2015年9月19日(土)

第十回「後白河天皇」2015年10月3日(土)

第十一回「二条天皇」「六条天皇」2015年10月17日(土)

第十二回「高倉天皇」2015年10月31日(土)

後朱雀天皇が父、三条天皇内親王・陽明門院禎子内親王を母として産まれた後三条天皇。長い東宮時代を経て、藤原摂関家との確執を乗り切って即位した帝。博識で剛毅で、そして白河天皇の父です。

後三条天皇

没年:延久5.5.7(1073.6.15)
生年:長元7.7.18(1034.9.3)
平安中期の天皇。名は尊仁。後朱雀天皇の東宮時代に三条天皇の皇女禎子内親王(陽明門院,母は藤原道長の娘妍子)を母として誕生。3歳で親王宣下を受け,父の死去で義兄の後冷泉天皇の即位にともない12歳のとき皇太弟となった。翌年に元服すると大納言藤原能信の養女茂子(実父は中納言藤原公成)を妃とし,ここに誕生したのがのちに院政を開始した白河天皇である。治暦4(1068)年,義兄の死去にともない即位,ときに35歳。24年におよぶ東宮の経験に加え,関白藤原教通と外戚関係がなかったことから親政をおし進めた。在位中の延久年間(1069~1074)に記録荘園券契所(記録所)を設置して荘園整理を推進し,宣旨枡という公定枡を制定し,秤量における不均衡を是正したことなど見るべきものがあった。特に荘園整理による摂関家の打撃は大きく,収公された荘園の多くは後三条天皇領となった。しかし在位5年足らずで第1皇子の白河天皇に譲位し,第2皇子の実仁親王(白河の異母弟)を東宮とした。譲位の理由として院政を行うためという説が早くからあるが(『愚管抄』ほか)決め手を欠き,病気と実仁親王の立太子とが原因という説が有力。半年後,病のため出家し(法名は金剛行),まもなく崩じた。遺骸は京外東の神楽岡で荼毘に付された。陵は京都市右京区竜安寺朱山の円宗寺陵。
(朧谷寿)
『朝日日本歴史人物事典』より
https://kotobank.jp/word/後三条天皇-64631







後三条天皇



院政を開始し、崇徳天皇の頃まで政治の実権を握っていた白河天皇。今まで政治の隅に追いやられていた受領階級を取り込み、政治を刷新しました。また、男女への寵愛が激しく、後々遺恨を残しました。

白河天皇

没年:大治4.7.7(1129.7.24)
生年:天喜1.6.19(1053.7.7)
平安後期の天皇で,譲位後も長く太上天皇として君臨し,いわゆる院政の伝統を創った。諱は貞仁。後三条天皇の第1皇子。

生母の藤原茂子は実父が藤原公成,養父が藤原能信で,摂関家の娘ではない。父後三条が即位した治暦4(1068)年の翌延久1(1069)年,皇太子に立てられる。さらに3年後の4年,父の譲位を受けて践祚した。

しかし,問題はこのとき異母弟の実仁親王が立太子したことにある。後三条の譲位の目的は実仁の立太子にあったと考えられ,この父の意思によって,白河天皇の子孫は皇位継承から除外される方向が明らかになった。白河の全人生は,かかる父の遺志に逆らい,自己の子孫の皇位継承を実現することに費やされる。

その途は父と実仁の死によって開かれた。応徳2(1085)年実仁が病死すると,翌応徳3(1086)年,白河は嫡子(堀河天皇)を皇太子に立てたその日に譲位を行った。緊張した異例の譲位であるが,それはなお有力な皇位継承候補者として,輔仁親王(実仁の同母弟)が存在していたためである。

白河の宿願は,康和5(1103)年堀河天皇に長男(鳥羽天皇)が誕生して,ようやく果たされた。白河はこの孫の鳥羽天皇の即位に引き続き,さらにその長男(崇徳天皇)も即位させて,ついに在世中に皇位継承は曾孫にまで至ることとなった。その執念の深さが窺われる。

保安1(1120)年,関白藤原忠実を勅勘に処した事件を起こすが,これは鳥羽天皇が忠実と連携して自立の動きをみせたためであるらしい。このように77年の生涯を通して,白河は皇位継承と子孫に対する支配を貫徹しようとした。この点に院政と呼ばれるものの本質があろうかと考えられる。

白河はよく専制君主と評価されているが,実際にはそのようにはみなし難い。愛憎の情は激しくとも,基本的に貴族と協調的であった。

「天下三不如意」や「雨水の禁獄」などの説話にも,その悪戯好きで冗談も口にする一面を読み取るべきであろう。<参考文献>河内祥輔「後三条・白河院政の一考察」(『都と鄙の中世史』)
(河内祥輔)
朝日日本歴史人物事典
https://kotobank.jp/word/白河天皇-80800




お忙しい中参加してくださった方々により、無事第三回も開催することが出来ました。摂関政治最盛期に生き、政治的には個性を発揮することは出来ませんでしたが、風雅に長じた優しいエピソードが残る後冷泉天皇さんにしばし思いを馳せていただけるとありがたいです。

後冷泉天皇

没年:治暦4.4.19(1068.5.22)
生年:万寿2.8.3(1025.8.28)
平安中期の天皇。名は親仁。後朱雀天皇の東宮時代に第1皇子として誕生したが,生母の藤原嬉子(道長の娘)は直後に他界。長元9(1036)年,12歳で親王宣下を受け,翌年東宮となり,寛徳2(1045)年,父の死で即位。道長の婚姻策成功により在位23年余,このため藤原頼通は摂関を半世紀も務めることになった。この天皇を最後に摂関の権力は弱体化の一途をたどった。父の発願による円乗寺は後冷泉天皇のとき落慶供養をみた。妃に章子内親王(後一条の皇女),寛子(頼通の娘),歓子(教通の娘)がいるが子に恵まれなかった。陵は京都市右京区竜安寺朱山の円教寺陵。
(朧谷寿)
コトバンク内『朝日日本歴史人物事典』の解説より。
https://kotobank.jp/word/後冷泉天皇-66902

えりかさんによる『平安夢柔話』さんの説明や
http://blog.goo.ne.jp/erika2672-t/e/f15a314824f0417326eacedcce79bb85

「千人万首」さんによる解説で、人物像も見えてきます。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/goreizei.html

紫式部の娘・大弐三位(藤原賢子)を乳母とするため、文学の素養があったのではないかと思います。


後冷泉天皇







無事に第二回を開催する事ができました。ご参加してくださった方にも感謝の気持ちでいっぱいです。
現在の皇統にもつながる後朱雀天皇、みなさんがどのようなイメージを持っているか興味がありました。

後朱雀天皇 ごすざくてんのう

1009-1045 平安時代中期,第69代天皇。在位1036-45。
寛弘(かんこう)6年11月25日生まれ。一条天皇の第3皇子。母は藤原彰子(上東門院)。同母兄後一条天皇の死により即位。藤原頼通(よりみち)が先帝時代につづき関白をつとめる。興福寺や延暦(えんりゃく)寺の僧徒がしばしば騒ぎをおこし,京中で放火が頻発するなど,世情は不安だった。寛徳2年1月18日死去。37歳。墓所は円乗寺陵(えんじょうじのみささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は敦良(あつなが)。法名は精進行。日記に「後朱雀天皇御記」。
【格言など】春雨のふりしくころは青柳のいとみだれつつ人ぞ恋しき(「新古今和歌集」)
コトバンクhttps://kotobank.jp/word/後朱雀天皇-64884
内の『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』より。

また、「千人万首 御朱雀天皇」にも彼が后に送った歌が紹介されています。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gosuzaku.html



後朱雀天皇















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