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50,000ヒットを踏んでいただいた、けろ子様のリクエスト「枕草子 第284段 香炉峰の雪」です。

この非常に有名な逸話はたくさんの日本画家の巨匠が絵画化していますのが、それらのイメージに引きずられないようにしたいと思いました。

まずは原文に当たる事さ!
と原文の訳文を読んでいたら、全てを絵にしたくなって、紙芝居風のマンガを描きました。


御簾を指し示しているのが清少納言で、それを見て満足げに笑っておられるのが中宮定子です。

定子さんを描くのが楽しかったです♪清少納言も前回の時と雰囲気をかけ離れさせないように努力して、大体上手くいったので良かったです♪


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ターニャ様が、35,000のキリ番としてリクエストしてくださいました。

マリア・デ・ラ・コンセプシオン・アルグエーリョ(愛称はコンセプシオンよりコンチャ:以下コンチャと表記)

Maria de la Concepcion Marcela Arguello

(1791-1857)

帝政末期のロシアの外交官・レザノフ(幕末に長崎を訪れて開国を迫った事で有名)の晩年の婚約者。

そして、スペイン統治時代のカリフォルニアを支配するフランシスコ会(フランシスコ会については、こちら「カリフォルニアとスペイン植民」小田康之氏の記事をご覧下さい。わかりやすく説明してあります。)の司令官の娘。

1806年、当時ロシア領だったアラスカの開拓民への食料補給の為にユーノス号に乗ってカリフォルニアを訪れたレザノフ(42歳)が、当地の司令官の娘であったコンチャと出会って一目惚れをしました。同様に、彼女もレザノフに恋をしました。当時の彼女の年齢は15歳。27歳差の恋です。その時の彼女をイメージして描きました。

2人が出会った時のコンチャについて、ユーノス号に同乗していたドイツ人医師、ゲオルグ・ハインリッヒ・フォン・ランズドルフは以下の様に書いています。

「彼女は活発さと陽気さ、彼女の愛らしいきらきらした目と非常に美しい歯、くるくると良く動く嬉しそうな表情、姿のすっきりとした美しさ、自然な動作、たくさんの魅力により他の人々より際立っていた」

レザノフは彼女に求婚し、彼女はそれを受け入れました。カリフォルニアの海岸を一緒に散歩しながら、彼らはロシアでの新しい生活について話しました。

けれども、コンチャの宗教はカトリック、レザノフの宗教はロシア正教です。同じキリスト教とは言っても1000年前に宗派が別れており、彼らが結婚するためにはレザノフはロシアに帰ってロシア皇帝の許可を得なくてはなりません。

レザノフは別れを惜しみつつ、ロシアへの帰途に就きました。ところがそれが二人の永遠の別れとなりました。レザノフは1807年3月1日、途中のクラスノヤルスクで、病死しました。

コンチャは彼女が旅の前にレザノフに渡したロケットを受け取りました。

彼女の両親はなんとか彼女を他の人と結婚させようとしましたが、彼女はそれを拒否して両親の世話やカリフォルニアとグアダラハラ(メキシコ)で、キリスト教の精神に基づき社会的に恵まれない人たちの世話をし続けました。

そしてレザノフの死から35年後の1842年、51歳でベニシアのドミニク修道院に入り、15年後の1857年、66歳で死去しました。

 

二人の悲恋はロシアでロックオペラ「ユノーナとアヴォーシ」の題材となり、ロシアでは知らぬ者のないほど有名な話だそうです。管理人は残念ながら未聴です。

でも、私は彼女のまっすぐ筋の通った潔い生き方に引かれ、意思の強い、かつ生命力の強い女性として彼女を描いてみようとしてみました。その試みは成功しているか分かりませんが、このHPで彼女の生涯を書く事によって少しでも彼女に興味を持っていただければ嬉しく思います。

最後にリクエストを下さり、コンチャの存在を知る手引きをしてくださったターニャ様、ありがとうございます。

 

*イラスト描法について:スペインの女優さんをモデルに(誰かは謎にしておきます)、線画は「コミックスタジオ」で描き、色はフォトショップで水彩風のブラシを使って柔らかい感じを出してみました。

背景の模様は、「月宿海 渡時船」で配布されていた菊立湧の模様を使用させていただきました。

    参考史料:「ユノーナとアヴォーシ」新井 滋、Maria de la Concepcion Marcela Arguello

  2006.4.30. 葉つき みかん

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この絵は今となっては描き直したい!

33,333番を申告してくださった、ちるぞぉさんのリクエストです。



海神(わたつみ)の豊旗雲(とよはたぐも)に入日さし

今夜(こよひ)の月夜(つくよ)さやけかりこそ(万1-15)

【通釈】大海原の上の、たくさんの幡(はた)がはためくような雲の群れ。そこに今しも沈む日が射して、今宵はさやかに照らす月夜になるぞ。

【語句】
「海神」:海を支配する神。海そのものをも言う。
「豊旗雲」:重層して水平にたなびく低層雲。
「さやけかりこそ」:原文は「清明己曾」。スミアカクコソ・アキラケクコソ・キヨクテリコソなど様々な訓み方がある。いずれにしても、夜の航海の安全を予祝する心である。

【解説】
即位前の天智天皇・つまり中大兄さんが、おそらく百済救援の為に船で筑紫に向っている途中に豊旗雲から光の筋がすっと通っている様子を見て、これからの航海の安全を祈って詠んだ歌だと思われます。

なぜそう考えたかというと、中大兄さんの略歴を見てみるに、百済救援の時以外は全て飛鳥という内陸にいて、海を見る機会はなかったと考えられるからです。

そうすると、この歌が詠まれた年齢はだいたい36歳位。少し皺なぞを付けてみました。後に白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗するとは夢にも知らず、大いなる希望を持って詠まれた歌ですので、その後の歴史を考えると少し切なくなります・・。



【主な派生歌】
入日さすとよはた雲に分きかねつたかまの山の嶺の紅葉ば(崇徳院/新拾遺)  はては又とよはた雲の跡もなしこよひの月の秋のうらかぜ(津守国冬/続千載)
郭公とよはた雲に過ぎぬなり今宵の月に又やまたれん(頓阿)  月もげにすめるこよひかわたつ海や豊はた雲の跡のうら風(二条為重)
入日さす塩瀬もとほしわたつ海やとよはた雲の末のしら波(藤原経宣[新千載])  待つ人は今夜もいさや入日さすとよはた雲の夕ぐれの空(大江忠幸[新拾遺])


【天智天皇略伝】

<基本データ>
・第38代天皇 ・推古34(626)~天智10(671)
・いみな:葛城皇子 通称:中大兄皇子 ・父:舒明天皇 母:斉明天皇 弟:大海人皇子(天武天皇) 妹:間人皇女
・皇后:倭姫王 子:大友皇子、大田皇女、鵜野皇女(持統天皇)、建皇子、御名部皇女、阿閉皇女(元明天皇)、志貴皇子

詳しい伝記はこちらをクリック。

*一年以上ぶりのイラスト作成で、フォトショの使い方を忘れていないか心配だったのですが、無事完成できました。輪郭はペンで描いたものをスキャンし、模様は文様集を元に自分で作りました。童顔のミドルエイジが描けました♪

    参考史料:千人万首「天智天皇」  2005.12.22. 葉つき みかん

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25,000を踏んでくださったマニラ様のリクエストです!
 
 
ありつつも 君をば待たむ 
うち靡く 我(あ)が黒髪に 霜の置くまでに
 
 
【通釈】じっとこうしてあの人の帰りを待とう。横に長く靡いている私の黒髪に白いものが混じるようになるまで。
 
 
【語釈】「うち靡く」:横に長くなる
 
 
【解説】不在がちな夫の帰りをじっと待つしおらしい妻の歌です。夫の仁徳天皇は、古事記に、髪長比売、異母妹 矢田皇女、異母妹 宇遅若郎女を娶ったと書かれています。また娶るには至りませんでしたが、異母妹 女鳥皇女にも粉をかけていました。
 
記紀にはそんな仁徳天皇に対して磐之媛が嫉妬の感情をぶつける話がたくさん書かれていますので、一般的には磐之媛は恐妻のイメージを持っている方もいらっしゃるかもしれません。
 
けれども、この歌を含む、万葉集に採られた彼女の歌を見る限り、磐之媛は純粋に夫を愛する可憐な妻のように思えます。それに嫉妬をするという事は、夫を本当に愛している証拠のように思えます。
 
・・まぁ、古代の事ですから、葛城の血を引く自分の存在を蔑ろにされた、とか他の女の腹に息子が出来て、後継者の地位を自分の息子から奪われたくない、という政治的判断もあったのかもしれませんが・・。
 
それにしても磐之媛の嫉妬の描かれ方は際立っているので、やはり仁徳天皇の事を政治的な判断抜きの部分でも愛していたのだ、と思います。仁徳さんとの間に四人も子供がいて、なんだかんだいって仲も良さそうですし・・。(ちなみに他の子供は、髪長比売との間に二人です。)
 
 
【葛城磐之媛(かずらきのいわのひめ)略歴】
<基本データ>
*仁徳天皇の皇后 *父:武内宿禰(たけのうちのすくね)の息子である葛城襲津彦(かずらきのそつひこ) 
*子:履中天皇・住之江仲皇子・反正天皇・允恭天皇
*仁徳天皇は磐之媛のために、葛城部を定めています。 
*『古事記』は特に大后の称号を多用して彼女に権威を与えています。

詳しい伝記はこちらをクリック。
*彩色は絵の具でアナログ塗りしました。背景の花は、桔梗です。花言葉が「変わらぬ愛」だったので、彼女にぴったりだと思い、背景に採用しました。床についている右手の描写に苦労しました。この鱗模様は、参考文献の『日本女性服飾史』で掲載されていた埴輪の服につけられていた模様をそのまま使用しました。
参考:千人万首「磐之媛皇后」、国史大辞典「葛城磐之媛」の項、「小学館 日本古典文学全集 古事記・上代歌謡」ページ270~289、

「講談社学術文庫 日本書紀」ページ230~240、井筒雅風『日本女性服飾史』光琳社出版

2004.9.5. 葉つき みかん  

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20,001番を申告してくださった、ささらえさんからのリクエストです。



和銅元年戊辰 天皇の御製   ますらをの鞆の音すなり もののへの大臣 楯立つらしも

(武人の鞆の音がしているようだ。物部の大臣が、<即位式のための>楯を立てているらしいよ。)

御名部皇女の和せ奉る御歌   わが大王ものな思ほし 皇神のつぎて賜へるわれ無けなくに 

(わが大王、天皇位をお継ぎになられるのに、物思いをなさいますな。私がお側におりますから。)    

(万葉集 巻一 76・77)

【語句】「和銅元年」:西暦708年。 「天皇」:元明天皇。当時47~8歳。略歴は後述。 「ますらを」:武人。 「なり」:聴覚による推定。「~らしい。」 

「鞆(とも)」:弓を射る時、左の肘に付ける革製の具。弓弦が肘を打つのを防ぎ、また弦音を高く鳴らすのに用いる。

「もののへの大臣」:石上麻呂の事。

「楯」:天皇の即位式や大嘗祭において、立てられた大楯。

「御名部皇女」:元明天皇の同母姉。

「なくに」:(倒置表現の和歌の末尾について)打消しの意を持った理由を示す。「~ないのだから」「~(で)ない以上は」 例:「松も昔の友ならなくに」
 

【解説】元明天皇の歌は、自分のための大嘗祭の行われる前に詠まれた歌と思われます。

私はこの歌を訳してみて、自分の力の届かない所で高みに押し上げられて戸惑っている元明さんの心情を感じました。

「夫や姉、息子は自分より先に死んでしまったのに、私はその死を悲しむ時間も与えられず、権力者のバランスを保つために、望んでもいない天皇の位に押し上げられてしまった。私はそれを押し止める力もなく、儀式の準備が行われるのを眺めているしか出来ない」という叫びを感じたので、そのような不安げな表情で彼女を描いてみました。

一方、御名部皇女の歌は、不安に戸惑う妹に対して、「私がいるから大丈夫!」と激励しています。なんて心強い!この歌を見ると、小さい頃から辛い時にはお互いに助け合ってきた姉妹仲の良い二人の様子が想像できます。

 

【元明天皇略歴】
<基本データ>
*奈良時代の女帝 *生没年:斉明七~養老五(661-721) *諱:阿閉(あへ)皇女。 *父:天智天皇 *母:蘇我倉山田石川麻呂の娘、姪娘(めいのいらつめ)
*夫:草壁皇子 *子:軽皇子(文武天皇)・氷高皇女(元正天皇)・吉備皇女

詳しい伝記はこちらをクリック。
 

御名部皇女は、元明天皇の姉で、父と母は元明天皇に同じです。高市皇子に嫁ぎ、長屋王と鈴鹿王を産みました。



背景写真は「ゆんフリー素材写真集(Photo by (c)Tomoyuki.U)」を利用させていただきました。 

参考文献:千人万首「元明天皇」「御名部皇女」、左佐良榎(ささらえ)に掲載していただいた拙イラストの解説文

2004.5.5. 葉つき みかん

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15000番を踏んでいただいた、コウスケさんからのリクエストです。

三国志演義に登場する呉の孫権の妹で、蜀の劉備の妻となった孫夫人が剣舞をしている姿を描きました。

美人でありながら、武術を好み、侠気(おとこぎ)のある、まさに劉備にぴったりの女性です!その上30歳近くも年下なんて、「劉備~!お前は果報者じゃのう~!」

劉備と孫夫人の結婚の場面を『三国志演義』本文から引用します。

****************************************
 数日して、盛大な宴席を設けて、孫夫人と玄徳(=劉備)との婚礼が挙げられた。夜に入って客が帰ると、左右につらなる赤い堤燈の中を、玄徳は花嫁の部屋に導かれる。見れば、蜀台の灯にあかあかと照らし出されたのは、立ち並ぶ槍・長刀。腰元たちはいずれも剣や刀を腰に帯びて、両側に立ち並ぶ有様に、あっと仰天した玄徳は魂も消え失せる。正に、取巻く侍女は刀を腰に、さては東呉に計られたか、と言うところ。さてこれは如何なるわけか。それは次回で。

(第五十四回 「呉国太 仏寺に新郎を看  劉皇叔 洞房に佳偶を続ぐ」より)

さて玄徳は孫夫人の部屋に槍や長刀が立てつらねられ、腰元たちが剣を帯びているのを見て、思わず色を失ったが、そこへ老女が進み出て、

 「お殿様、お驚きには及びませぬ。奥方様にはご幼少の頃より武術をことのほかお好みで、常々腰元たちに撃剣をさせてはお楽しみ遊ばされておったような次第ゆえ、このように物の具をお飾り遊ばしておるのでございます。」

「これは女のなすべきことではない。何やら落ち着かぬから、しばらく取り払ってくれい」

 老女がこれを孫夫人に伝えて、

 「お部屋に物の具があっては、花婿様のご気分がすぐれぬそうでございます。片付ける事にしては如何でございましょう。」

と言うと、孫夫人は、

 「半生を戦場に送りながら、それでもあんなものが恐いのかねえ」

と笑い、それらを全部片付け、腰元たちも剣をはずすように命じた。その夜、玄徳は孫夫人と床をともにし、固く契りあった。

(第五十五回 「玄徳 智もて孫夫人を激せしめ 孔明 二たび周公キンを気せしむ」より)

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劉備が孫夫人と結婚するまでの経緯を以下に軽くまとめます。

呉の孫権と周瑜は、劉備を殺そうとたくらみ、孫権の妹と結婚させる事を餌として、劉備を呉におびき寄せ、そうして殺してしまうという計画を実行に移そうと、劉備に手紙を出します。

その手紙を受け取った劉備は、孔明に「孫権は、自分を呉におびき寄せて、殺すつもりなのではないか?」と相談し、彼女との年の違いを理由(当時、劉備50歳、孫夫人20歳前後?)に縁談を断ろうとしますが、孔明に3つの袋に入った策を授けられ、趙雲を伴い、呉に赴きます。

呉に入った劉備は、孔明の策通り、まず二喬(三国志時代の絶世の美人姉妹、大喬、小喬の事です!)の父、喬国老に会い、孫権と孫夫人の母の妹であり、実母の死後、母代わりとして彼らを育てた孫国太に面会する手はずを整えてもらいます。

劉備を一目見た国太は、劉備を大変気に入り、孫権に「わが娘の婿である劉備を傷つけてはならない!」と宣言し、義理の母とは言え、孝心の厚い孫権は、国太の言う事に従わざるを得ず、劉備と孫夫人との結婚が正式に決まり、ここに孫権と周瑜の企みは崩れました。

その後、劉備は孫権の目を欺いて、孫夫人を連れて蜀に帰る手はずを整えます。生きたまま劉備を蜀に帰したくない孫権と周瑜は、先祖の墓参りをすると言って二人の目を欺いて蜀に帰ろうとした劉備、趙雲を殺し、孫夫人を連れ戻そうと追っ手を差し向けます。あわやつかまるか?という時に、孫夫人が立ち上がります!「私にお任せ下さいませ!」

自分の臣下である追っ手の男達を怒鳴りつけて時間を稼ぎ、無事に三人を蜀に到達させます。う~ん、姐御!かっこいいっ!

劉備について蜀に来た孫夫人は楽しく暮らしていましたが、妹を取り戻したい孫権が彼女に「母が危篤だ」という嘘の手紙を出します。それを信じた孫夫人は(←ちょっと単純な所が玉に瑕です。お嬢様で育ったから仕方ないのかな・・・)、劉備の一粒種、阿斗を連れて呉に帰ろうとします。趙雲によって阿斗は連れ戻されますが孫夫人は呉に連れ戻され、劉備と不本意な別れをします。

その後、彼女は呉で暮らしている時に劉備が死んだという誤報を聞き、川に身を投げて死んだそうです。(ここまでは演義を実際に読んでいないので未確認です。)

短い結婚生活でしたけれど、彼女は本当に劉備の事を愛していたようです。頭に血が上るのがかなり早いお嬢様ですが、武術を好む活発な女性で、また根はとても良い人だと感じました。

孫夫人は、青い目で、紫の髭を持つ孫権の妹って事で、少し異国の血が混じった、エキゾチックな感じの美人として描いて見ました!そして、剣撃が好きだったと言う事が演義に載っているので、剣舞をさせてみました。

<衣裳について>
三国時代の女性の服飾は、袖がゆったりとしたものとなり、スカートのような裳を二枚履いて、上の短い裳から、華麗な紐を何本かたらして、風が吹いたら靡くようにしていたそうです。

また、真珠のイヤリングや髪飾りをして、腕には腕輪をしっかりはめていたそうです。また、髪飾りからは、孔雀の羽もぶら下げられていたようです。髪の結い方は、当時、魏の皇帝曹丕(曹操の子供)の寵愛を受けていた女性が、蝉の羽の様な透き通った髪型をしていたとの事でしたので、それを想像して描いてみました。

魏晋南北朝時代の風俗は、社会が混乱していたからこそ服装の厳しい決まりが緩んで、非常に華やかになったそうです。私は今回三国時代の服装を調べている時にその事を知り、「ぜひその時代の女性の華やかさを出してみたい!」と思い、その点を強調して描いてみました。

参考文献:『中国古典文学全集 三国志演義(上)(下)』訳:立間 祥介(平凡社)昭和33年、華梅 著・施 潔民 訳『中国服装史』2003年 白帝社

2004.2.13. 葉つき みかん

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11111番のキリ番を踏んで下さった、hagi-ko様からのリクエストで描いた源実朝のイラストです。

金塊和歌集 巻之下 雑部  黒
うばたまの 闇のくらきに あま雲の 八重雲がくれ 雁ぞ鳴なり   

源実朝

【通釈】(ぬばたまのような)闇の暗さに、大空の打ち重なる雲の雲隠れして、雁が鳴いているのだなあ。

【語句】*「うば玉の」=「闇」の枕詞 *「あま雲の八重雲がくれ」=大空の打ち重なる雲の雲隠れに

【解説】源実朝の私家集『金塊和歌集』雑部で、「黒」の題が付けられている歌です。この歌によって詠われている情景を、hagi-ko様のお言葉で説明していただきます。
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「真っ黒な描写で、雁も鳴き声だけの登場です。真っ黒な背景にポツンと実朝。」
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20代の、一見したら将軍という非常に恵まれた地位にいて、希望に満ちあふれていると思える青年にはふさわしくないような、ブラックオンリーの歌ですね。歌と人生を重ねてはいけないのでしょうが、(特にこれは題詠のようですし)実朝はいずれ自分が暗殺される運命を予感してこの歌を詠んだのではないかと、どうしても考えてしまいます。

そうして、この歌からは、実朝は自分の運命を恐れ、逃げるのではなく、素直に受け入れて、自分の未来を見つめているというように思えるのです。

ただし、受け入れるといっても全て達観してはいません。「なぜ自分が殺されるような立場に立たされなくてはならないのだ・・・?」と、運命の不条理を心の中で抱えています。その不安をうつろな視線で表してみました。

【略歴】

<基本データ>
*鎌倉幕府第三代将軍。 *生没年:建久三(1192)~承久元年(1219)*父:源頼朝 *母:北条政子 *幼名:千幡 

*乳母:阿波局(母の妹)。阿野全成(阿波局の夫、父の異母弟)。 *家集『金塊和歌集』


参考史料:国史大辞典「源実朝」(三山 進)、千人万首「源 実朝」、橋本治『これで古典がよくわかる ハシモト式古典入門』(ごま書房・1997)、永井路子『炎環』(文春文庫)、吉本隆明『源 実朝』(ちくま文庫・1990) 

2003.11.19. 葉つき みかん 

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9999番を踏んでいただいた、狭也さんからのリクエストです。


「額田王、近江天皇を思(しの)ひて詠める歌」
君待つと 我が恋ひをれば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く

【通釈】
「額田王が天智天皇を慕って詠んだ歌」

あの方をお待ちして、私が恋しい気持ちでいると、私の家の戸口の簾を動かして、秋の風が吹いています。(万葉集)

【解説】詞書は、「額田王、近江天皇を思(しの)ひて詠める歌」となっており、近江天皇イコール近江大津宮に遷都した天智天皇なので、額田王が天智天皇を思って詠んだ歌です。額田王の生没年は未詳ですが、この歌が詠まれた時を仮に近江大津宮遷都後と考えると、37歳から40歳位だと推定できるので、その位の年齢で描いてみました。

雄大・荘厳・理知的な歌が多い額田王には珍しく、繊細な歌です。淡いセピア色の夕暮れの風景の中で、涼しい秋風のそよと吹く光景が想像できます。

私は調べるまで、この歌は額田王の体験を彼女の言葉で詠ったと思っていたのですが、今までの研究から中国の六朝詩の「清風、帷簾を動かし」の影響が指摘されています。したがって、ここから天平時代の人が作った歌を額田王に仮託したという説もあるそうです。

参考までに下に「清風、帷簾を動かし」の全文と訳を載せておきます。

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「清風、帷簾(ゐれん)を動かし 晨月(しんげつ)幽房を燭らす/ 佳人、遐遠(かえん)に處(を)り 蘭室 容光無し

衿懐(きんくわい)虚景を擁し 軽衾もて空牀(くうしやう)を覆ふ/ 歓(よろこび)に居ては夜の促(みじか)きを惜しみ うれひに在りては宵の長きを怨む

枕を撫しては獨り吟歎し 綿々として心内に傷(いた)む」

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訳:
「清らかな風が帳の簾を動かし、夜明けの月が静かな部屋を照らしている。/あなたは遠方に行っているので、私の部屋にそのお姿は見られない。

 胸の中であなたの幻影を抱いているが、軽い衾が空しい床を覆っているばかり。/歓びの逢瀬の時は夜の短さを惜しんだが、悲しみに沈んだ今は夜の長さが恨めしい。

 ただ枕を撫でて一人嘆き、綿々と心のうちに痛みを感じるばかりである。」

 徐陵(507~583)編、『玉台新詠(男女の相思の情を詠んだ詩を集成した漢詩集)』内の「巻二 情詩五首」より(梶川信行『創られた万葉の歌人-額田王-』p194~195)

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【主な派生歌】

夕すずみあだねの床のあけ方にすだれうごかし秋はきにけり(殷富門院大輔) たそかれに物思ひをれば我が宿の荻の葉そよぎ秋風ぞ吹く(実朝[玉葉])

軒はあれてすだれうごかし吹く風にねやのおくまで月ぞいざよふ(後崇光院)

 
【略歴】
<基本データ>
*飛鳥・白鳳時代の女官、歌人 *父:鏡王 *姉:鏡女王 *娘:十市皇女(大海人皇子による) *夫:大海人皇子→天智天皇 

*生没年未詳ではありますが、『創られた万葉の歌人-額田王-』で、大化元年(645年)に15歳で元服した大海人皇子の添い臥しに上がったという考えが示されていました。この時代、添い臥しと言う制度はあったかは疑問ですが、額田王は大海人の初めの妃なので、制度としてはなかったとしても大体添い臥しの様な結ばれ方をしたと思われますので、大海人の皇子との結婚が15歳から19歳の間に行われたとすると、彼女の生年は西暦626~630年辺りと考えられます。

詳しい伝記はこちらをクリック。

【装束】「風俗博物館」の考察に従いますと、以前描いた持統天皇の様な装束になったのは、壬申の乱に勝利した天武天皇が大幅な改革を行った結果定められたと考えられています。その根拠は天武十一年に、「男女とも髪を結い上げる事」という法令が発令された事が挙げられています。その髪型が、いわゆる高松塚古墳の壁画に描かれていたような髪型だと推定し、それ以前は推古朝の装束のままだったと考えられています。

私はまだまだ根拠が弱いような感じがするのですが、他の史料が手に入らないため、大事をとって古い方の装束で描きました。でも実際はどちらだったかは分かりません。

*今回も人物の輪郭はかぶらペン、目は0.5ミリのミリペンで描きました。背景はいつものようにパスで描き、紅葉は別に大きく描いた葉っぱをコピー&ペーストして適当に散らしました。上向き加減で描いたからなのですが、思った以上に頬骨が目立ってしまって残念です。今度上向きを描く時にはもっと頬骨を緩やかに描こうと思います。

参考史料:国史大事典「額田王」、梶川信行『創られた万葉の歌人-額田王-』はなわ新書、千人万首「額田王」

2003.9.30. 葉つき みかん

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8888番を踏んでいただいた、細雪 薔薇子さんからのリクエストです。


 

宇津保物語・藤原仲忠

かくばかり 見ねば恋しき君をいかで 知らで昔を わが過ぐしけん 『蔵開・中』 

【通釈】こういう風に会わずにいれば恋しく思うのに、そのあなたをどうして昔は知らないで私は過ごして来たのでしょう。

 

「宇津保物語」の「蔵開・中」巻にある、主人公・仲忠から北の方である帝の女一の宮への恋文の中に書かれている歌です。

薔薇子さんは、その場面を、以下の様な文章で説明してくださいました。

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このとき、仲忠は25歳、右大将。 詠んだ場面は内裏に宿直した雪の朝、殿上の間で。

気の進まないまま結婚したはずが、今ではすっかり愛妻家。 女一の宮へ愛情溢れるやりとりがなされる場面で、大好きなんですv

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薔薇子さんの「宇津保」への愛情が読み取れる文章です♪

一応、歌の前後の手紙の文章も書いておきます。

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 夜はいかが。御返りも給わせざりしかば、覚束なくもなん。更に散らし侍らぬものを

 かくばかり 見ねば恋しき君をいかで 知らで昔を わが過ぐしけん

 と聞えさするも、思しや出らんと思ひ給ふるこそ。かつは犬こそ、いと恋しう侍れ。我が君御懐に抱かせ給へれ。今朝の雪いと寒げなれ

【通釈】(一人寝の)夜はいかがでしたか。お返事もしてくださらなかったので、ご案じ申し上げていました。あなたの御文を他人の目にさらす事は決してしませんのに。(前日、女一の宮からの文を持ってきた人が、大声で仲忠に渡したので、彼女の父である帝の耳にとまり、帝に見せるように言われて見せる事になってしまったので。)

かくばかり 見ねば恋しき君をいかで 知らで昔を わが過ぐしけん(歌の意味は上に。)

と申し上げるのも、思い出していただけると思うからです。一方で、犬宮が非常に恋しく思われます。我が君、あなたの懐に抱いてあげてください。今朝の雪はとても寒そうですから。

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仲忠から、女一の宮、二人の間に出来た最愛の娘、犬宮への濃やかな愛情が感じられます。(^ ^)私はこれを参考に、雪の降る中、宮中の宿直所で、女一の宮と犬宮に想いをはせる、仲忠を描いてみました。

 一応、装束の色について解説しておきます。仲忠が着ている直衣は、本文にもあった、柳かさねの袍で、下に青鈍の指貫をはいています。女一の宮の重ねは、白撫子です。

この文は、仲忠が帝の前で、祖父俊蔭の珍しい文書や歌集を朗読するよう命ぜられ、それに時間がかかり、3日も心ならずも宮中に留められていたため、女一の宮と会いたい気持ちが募って、何回か文を書いたうちの一つです。



<宇津保物語について> 

宇津保物語は、平安時代中期の天禄~長徳(970~999)の頃までに成立した日本初の長編物語で、作者は源順(みなもとのしたごう)など複数の説が有力です。全部で四部からなります。

第一部は「俊蔭」・「忠こそ」、第二部は「藤原の君」から「田鶴の群鳥」までの10巻、第三部は、「蔵開(上中下)」「国譲(上中下)」の6巻、第四部は「楼の上(上下)」の巻です。

清原俊蔭の子孫が音楽によって立身すると言う芸術至上主義の物語で、俊蔭・俊蔭女・仲忠・犬宮の四代に琴の秘曲が伝えられ、一族が繁栄するという事を骨組みに、恋愛と権力争いを絡めて、貴族の生態を現実的に描いています。(京都書房『新修国語総覧』を参考にして書きました。)

・・なーんていう通り一辺の紹介ではとてもとてもその魅力は伝えられません!!

このお話を読むと、なよやかで、朧な印象の平安貴族が、急に、賑やかで生々しく、したたかなものに変わります。

宇津保の貴族女性は、高貴な女性も、それほど自分の心を押し隠したりはせず、とてもたくましいです。政治的打算にたける貴宮をはじめ、憎い継子を追い落とすためには、金で盗賊さえも雇う元左大臣の北の方、自分に不実な春宮に怒り、相手の衣を引き裂き、体中に傷を負わせる美貌の女五の宮。仲忠母も、ほとんど一人で仲忠を出産し、食べる物がなくなった時には、山の中の洞窟で、木の実を食べて生きていく事も厭いません。

この他にも多くの登場人物が登場します。主人公だけでなく、脇役も個性的です。自分のすぐ側にもいそうな、おろかで人が良く、人情に厚い、生身の人々がいっぱいです。

 

「枕草子」には、清少納言が仲忠びいきだったというエピソードが載っています。

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第79段:(前略)凉、仲忠などがこと、御前にも劣りまさるほどなど、おほせられける。(女房)「まづ、これはいかに。とくことわれ。仲忠が童生ひのあやしさを、せちにおほせらるるぞ」など、言へば、(清少納言)「なにか。琴なども、天人の降るばかり弾きいで(ず?:注)、いとわろき人なり。御門の御女やは得たる。」と言へば、仲忠が方人ども、所を得て、「さればよ」など言ふに・・・(後略)
 (訳)凉、仲忠などのことについて、中宮様もその優劣について御意見をお述べになる。(女房)「さあさあ、この問題について、あなたはどうお考えです。早く意見を申し述べなさい。中宮様には、仲忠の子供の頃のみじめさをしきりに難点としておっしゃっておいでですよ。」などと言うので、(清少納言)「それがどうだというのでしょう。(凉は)琴など、天人が降りてくるほどの弾き手では(ない?)ので、はなはだ見栄えのしない人物です。(凉は仲忠のように)帝の御娘を北の方に頂いたでしょうか。」と言ったなら、仲忠贔屓の人は力を得て、「やっぱり、ねぇ」などと言う・・
(注:本文では否定の助詞はついていないのですが、宇津保本文で凉が天人を降ろした事はないし、動詞の活用が未然形だったので、写す過程で後の否定の助詞が抜けたのではないかと考えて、つけてみました。)

第82段:本文は紹介しにくいので割愛します。出仕を促す中宮定子への返事に、「宇津保」所収の和歌を引いて答えた折、中宮定子に、「お前のたいそうご贔屓らしい仲忠」と言われていました。

第212段:(前略)仲忠が童生ひ言ひおとす人と、ほととぎす、鶯に劣ると言ふ人こそ、いとつらう、にくけれ。
 (訳)仲忠の子供の頃のみじめさをけなす人と、ほととぎすが鶯に劣るという人は、本当に情けなく、憎らしい。
角川文庫「枕草子」(石田穣二訳注)
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あくまで私の推測ですが、清少納言が仲忠贔屓だった理由の一つは、仲忠が清原の血を引いていたからではないでしょうか。

余談ですが、もし「宇津保物語」の中心的作者が源順なら、「梨壺の五人(注)」で一緒に歌を選んでいた清原元輔とは同僚になります。元輔は、清少納言の父です。この作品が作られたのは、後撰和歌集が出来上がった西暦951年以降ですから、清少納言は父を通じて早いうちから「宇津保」を手に入れ、読み込んでいたのかもしれませんね。

(注:梨壺の五人=村上天皇の勅命により、内裏の梨壺で「後撰和歌集」を編纂し、また「万葉集」に訓点を施した五人。源順、大中臣能宣、清原元輔、坂上望城、紀時文)

*今回は、全体的に絵が左に詰まってしまったのが残念です。仲忠も女一の宮も、私の頭の中のイメージより微妙に容姿が落ちるし・・く、悔しい。背景は、いつものように、パスとラインを使用して直描きです。人物の輪郭は、かぷらペンを使用し、目の辺りの細かいところは、ミリペンを使用しました。

まだまだ私の筆では不足なため、

詳しくはリクエストしてくださった薔薇子さんのサイト「宝生の千夜一夜」を参考にしてください!

また、京都大学電子図書館の宇津保物語のページでは、宇津保の原文と奈良絵本の画像が見れます。

かなり断片的なものですが、私なりの「宇津保」の読書ノート・登場人物紹介もご覧いただけると幸いです。

参考図書:岩波書店 日本古典文学大系『宇津保物語』校注:河野多麻 昭和36年

2003.9.17. 葉つき みかん

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(クリックすると拡大します)

6667番を踏んでいただいた、村橋こまち様のリクエストです。



「はちすの露をみてよめる」
はちす葉の濁りに染まぬ心もて なにかは露を玉とあざむく

僧正遍照

【通釈】「蓮の葉を見て詠んだ」

蓮は、沼や泥に染まることなく美しい花を咲かせるのに、どうしてその葉の上にある露を玉のように見せかけて、人を騙すのだろうか。

【解説】詞書によりますと、実際の蓮の花を見て詠んでいるので、題詠ではありません。上句は法華経の第十五、湧出品の中の「此の諸(もろもろ)の仏子(ぶっし)等は、其の数量(はか)るべからず 久しくすでに仏道を行じて 神通智力に住せり 善く菩薩の道(どう)を学(がく)して 世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し」を踏まえることが古来指摘されています。

遍照さんらしい、飄々とした中にもおかしみがある歌です。

<主な派生歌>

心すむ池のみぎはの蓮こそにごりにしまぬ色も見えけれ(慈円)  

露の身を玉ともなさんはちす葉のにごりにしまぬわが心より(〃)

夏の池にもとよりたねのあればこそにごりにしまぬ花もさくらめ(〃)  

露をさへ玉とあざむくはちす葉のにごりにしまぬ夏の夜の月(雅経)

はちす葉の露のしら玉みがくれてにごりにしまぬ夏の池水(土御門院)  池水のにごりにしまぬ色みえてしげるはちすにみがく白玉(為家)

みがきなす光もうれしはちす葉のにごりにしまぬ露のしら玉(公賢[風雅])  蓮葉のかげにならびてたつ鷺もにごりにしまぬ雪の毛衣(長嘯子)

風こえてちるぞ涼しき蓮葉になにかは露を玉とのみ見む(宣長)


【略歴】
<基本データ>
*平安初期の僧、歌人 *生没年:弘仁七~寛平二(816-890)  *俗名:良岑宗貞  *号:花山僧正  *父:大納言・良岑安世 *子:素性法師 *六歌仙、三十六歌仙 *多選家集『遍照集』 *勅撰集入集歌は計36首

詳しい伝記はこちらをクリック。



*遍照さんは35歳に出家したというのに、私ったら遍照さんに若々しいイメージを抱きすぎて、すごく若く描いてしまいました。これじゃおじさんではなく、青年だよ・・・。永井路子さんの「王朝序曲」で、この方の父君、良岑安世がいつまでも若いイメージで書かれていたので、それに引きずられてしまったかも・・(^_^;)

でも、この感じの良さは私のイメージ通りに描けました♪季節にふさわしく、夏の歌のため、暑苦しくならないよう、目にも爽やかな薄いグリーンを基調にしました。人物はミリペン、蓮はパスで描きました。サイズを小さくすると蓮の葉の上の露が目立たなくなってしまったため、わざともう少し大きくすればよかったな、と思いました。蓮の葉を目立たせ、背景に人物をなじませるため、人物の透明度を少し下げました。

千人万首「遍照」、「妙法蓮華経」を参考にしました。

2003.7.11. 葉つき みかん


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