小倉百人一首 第九十番 殷富門院大輔 ミニストーリー

ある歌合の席で、恋の歌の題が出た。

「見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず
(血の涙で変わってしまった私の袖をお見せしたいものです。
松島の雄島の漁師の袖でさえ、波に洗われて濡れていたけれども、色までは変わりませんでしたのに。)」

講師が後白河院の皇女である殷富門院(いんぷもんいん)亮子内親王に仕える、大輔の歌を読みあげると、座が一瞬ざわめいた。
講師は再びその歌を繰り返した。

すると、一人の歌人が呟いた。
「これは・・・昔に詠まれた源重之の歌を本歌として詠まれた歌なのですね・・・。」
もう一人の歌人もそれに呼応して、
「ああ、あの名歌
『松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか
(松島の雄島の磯で魚を取っている漁師の袖は、涙に濡れた私の袖の様に濡れている)』
ですか・・・。」

ろうたけた中年女房、その当人である殷富門院大輔が口を開いた。
「そう、その雄島の漁師の袖でさえ、私の深い悲しみによって流れた血涙で染まった袖の様に赤くはないでしょう、という事を言いたかったのですわ・・・。」

「さすが『千首大輔』と呼ばれるだけある・・・」
「技巧的(テクニシャン)だなぁ・・・」
 
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殷富門院大輔が出詠した歌合は、歌人出席型のものかは、まだ調査していないのでわかりません、が、ちょっと歌の内容を解説してもらいたくて、こういう形式で作ってみました。

『千載集』辺りから本歌取りも発達してくるので、歌の構造が入れ子構造になってきて、一枚のイラストで納めるのが大変そうだぁ・・・。血で赤く濡れた袖も絵で描いたらちょっとギョッとなりそう。どうソフトに描こうか・・・。

平成26年12月7日 葉つき みかん

「漢詩を和歌に翻案できるか?」
大江千里は宇多天皇の御言葉をうかがい、耳を疑った。
「漢詩を和歌に…ですか?
音韻も平仄も全く違うのです。
漢詩を和歌に翻案したら、漢詩の美しさのほとんどは消えてしまいます。
主上はなんのためにこのような事を思いつかれたのですか?」
「嵯峨の院からこの方、この国では漢詩ばかりを崇めてきた。
確かにまろは漢詩は大好きだ。
しかし、自然な心を表すにはどうしても和歌を作ってしまう。
この国の文学には、漢詩も和歌も必要なのだ。
ただ、和歌は大らかで素晴らしい反面、繊細な感情を表す表現がまだ足りていない。
この表現を、漢詩の技巧から取り入れたい、その為に漢詩と和歌、両方に通じているそなたに頼みたいのじゃ。」
「私めには荷が重すぎます。漢詩と和歌、両方に私よりも遥かに通じていらっしゃる菅丞相に…。」
「いや、右府には新撰万葉集編纂を命じている。これ以上の負担はかけられぬ。
どうか頼まれてくれぬか。」
主上に深々と頭を下げられた大江千里は、勅命を辞退することは出来なかった。

<ミニストーリー>

今回はいつも以上に想像を交えてしまいました。家隆と定家が若いとき、二人の間にこんな出来事があったのかなー、あったらいいなーと思ってかきました。

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承久の乱で後鳥羽院が隠岐に流されてから八年後の寛喜元年(1229)。

京、従二位藤原家隆の邸で―

「前関白・九条道家殿から御息女入内の際に屏風に書く歌の依頼が届きました」

息子・隆祐の声を聞き、壬生二品・藤原家隆は文机から顔を上げた。

家隆は七十ニ歳。既に真っ白になった鬢を綺麗に撫でつけ、しわはあるけれども白くてすべらかな蝋の様な肌をしている。大きく色素が薄い透き通るような瞳で隆祐を見た。

「どういたしましょうか。お受け致しますか?」

家隆はほんの少しの間思案するように空に視線を飛ばした。そしてすぐ、柔らかく微笑した。

「当然だ。私は道家殿の御祖父の月輪関白殿(九条兼実)、お父上の後京極摂政殿(九条良経)に大変お世話になった。お声をかけていただくだけでも大変ありがたいことだ。」

隆祐は、ちょっと驚いたように目を見開いた。が、すぐに我に返った。
「はっ、かしこまりました。」

隆祐が道家殿からの使者に承諾のお返事を告げに走って行く音を聞きながら、家隆は瞳を閉じた。

まぶたの裏には、後鳥羽院から勅勘をこうむる直前の定家の顔があった。

(定家・・・。そなたが道家殿に進言したのか・・・?)

道家殿の姉・立子殿所生の九条廃帝(仲恭天皇)が承久の乱敗北により即位後、八十一日で廃された。

帝の外戚となる夢破れた道家殿が、今度は帝の外祖父となる勝負を掛けている(立+尊)子様入内。
その為のお支度である月次(つきなみ)屏風の準備も気合が入っているであろう。

屏風絵自体も、その絵に歌を添える歌人も一流でなくてはならない。

なぜ、私に声をかけた?定家・・・。

定家の妻は関東申継の地位にあり、都で勢威を振るっている西園寺公経殿の同母姉。累代でお仕えした九条家も当主の道家殿が公経殿の婿であるため、政治の要を担っている。

乱の前は後鳥羽院の勅勘をこうむって閉門していたが、今はそれが幸いし、公経殿、道家殿の後援を受けて、歌壇の中心人物となっているようだ。近々、帝(後堀河帝)より勅選集の選定を命じられるとの噂もある。

きっと今回の屏風の歌人選定にも定家がかなりの程度関わっているだろう。



それに引き換え、私はいまやほとんど世捨て人の境遇。

後鳥羽院歌壇華やかなりし頃は、私はもったいなくも院にお引き立ていただき、後京極摂政・九条良経殿からは、かたじけなくも「末代の人丸」という呼び名をいただいた。・・・しかしそれも昔の話。

承久の乱で院が敗北し、隠岐に配流された後でも、私は院をお慕いし続けて、消息を送っている。自然、私は鎌倉から疎んぜられ、歌壇の中心から離れて侘しい日々を送っている。

乱の敗北から守護・地頭の横暴も激しくなり、領地からほとんど年貢があがってこなくなっているが、私は敬愛する院への消息を絶ち、鎌倉方の公卿にすりよることはできなかった。

隆祐が私の承諾に驚いていたのも、いままでのこんな私の態度をみていたゆえだ。


あからさまに鎌倉には楯突いていないけれども、従順に従ってもいない。そんな私を、定家はどのように道家殿に推薦したのだろう。


家隆は昔、順徳天皇の内裏で行われた「冬題歌合」で、家隆の歌が天皇の御製と番えられた時、満座が天皇の歌を支持する中、一人口角泡を飛ばして家隆の歌を支持する定家の様子を思い浮かべた。

そして、私はなぜ依頼を受けたのだろう・・・。

家隆は、ふっと自嘲的に笑った。

やはり私にはまだ、晴れがましい場に出たいという欲が残っていたと見える・・・。



翌日、家隆は屏風に描かれる予定の絵の題名一覧を眺めていた。そして、ふと一カ所で目をとめた。

そこには「上賀茂神社 夏越の祓」と書かれていた。

家隆は遠くを見るような目付きになった。



-夏越の祓か・・・。

あれは六十年ほど前。
私が十八歳位の時、定家と一緒に上賀茂神社の夏越の祓を見に行ったな・・・。

定家は十四歳。ようやく父君の俊成殿から本格的に歌の手ほどきを受け始めた頃だった。私も一年ほど前に舅の寂蓮の紹介で、俊成殿の門下に入ったばかり、ほとんど同じ位から歌人としての修行をはじめていた。

そのころから既に大御所の歌人であった俊成殿に、作歌の参考になるから、と定家と一緒に夏越の祓を見に行くことを勧められた。

私は即座に承諾の返事をした。俊成殿は私を連れて定家の部屋に行った。定家は内裏から帰り、涼しそうな水色の紗綾の狩衣に着替えた所だった。

「今日は上賀茂神社で夏越の祓がある。作歌の助けになるだろう。見に行ってはどうか。」

俊成殿は幼子に対するように定家に話しかけた。五十歳を過ぎても若いときのまま端正な顔も、定家の前ではとろけてしまいそうに見えた。

四十近くなって生まれた子はかわいくて仕方がないのだな・・・。私は心の中で微笑した。

「嫌だ。暑いじゃないか。それにまだ虫が出る。蚊に刺されたらかゆいよ。」

まだ父君に甘えたいさかりの定家は口をとがらした。

俊成殿は困った顔をして、

「せっかく家隆殿もついて行ってくれるのに。」

定家はぱっと顔を輝かせた。
「え、ホント?じゃあ行く。」

兄弟はたくさんいるがすべてかなり年長で、実質一人っ子のように育てられた定家は私を兄のように慕ってくれていた。
嬉しそうに私と一緒の牛車に乗り込む定家を見て、私はなんだかくすぐったい気持ちを感じた。

夕暮れの中、牛車の中で定家は、今日内裏でどんな面白い体験をしたかを熱っぽく話し続けた。実は私と定家は同じ侍従として帝に仕えている。・・といっても、私は定家より一年後に侍従になったので、定家は先輩でもあるのだ・・・。


上賀茂神社につくと、従者が川に流す紙の人形(ひとがた)を取って来た。
定家と私は裏に自分の名前を書き入れた。
あと数刻ではじまる儀式で、最後にならの小川に流し、この半年で身についたケガレを流すのだ。

私は文字を書いている定家をのぞき込んだ。
「丸っこい字ですねぇ。」
すばやく自分の字を袖で隠して、定家は上目使いで私をにらんだ。私はほほ笑みながら、手を出した。
「神主殿に渡しに行きます。お渡しください。」
「ぼくが渡しに行く!」
定家は私の手から人形を抜き取って社殿の方へ走って行った。


私は、牛車から降りて、定家が戻ってくるのをゆっくりと待っていた。

松明を持った従者を従えて定家が戻ってきた。
「あちらに、大きな茅の輪があるよ、くぐりに行こう!」

私と定家と、従者は、直径が人の高さほどもある、わらで出来た大きな輪っかを作法通りにくぐった。
「水無月(みなつき)の 夏越しの祓する人は ちとせの命 のぶというなり」という歌を心で唱えながら、左まわり、右まわり、左まわりで輪をくぐった。

そうこうしているうちに真っ暗になり、人形流しの時間が近づいたので、私たちは、ならの小川の方に歩いていった。
もうたくさんの人々が集まり、私達が入り込む隙間はない。が、御子左家の従者達はしっかりしたもの、牛飼い童ともう一人の従者が、私たちの場所をとっておいてくれて、私たちは一番前で見ることができた。

後で並んでいた子供が恨めしそうな目で見ていたので、私はその子を膝の前に引き寄せた。定家はちょっとすねたような顔をした。

川の流れる音が耳に心地よい。暑かった夏が嘘の様に耳元を涼しい風が通り抜けていく。

「結構涼しいね。来てよかった。」
定家はつぶやいた。

川の中に立てられた、四本の篝火に火が点された。風があるので、気持ちよいほど燃える。篝火の明かりが川の流れに映って幻想的な情景を作り出した。
橋の様に川に渡された建物に、白い浄衣を着た神職が現れて、楽の音が鳴りはじめた。

神職たちは身を乗り出して、私達が名前を書いた紙の人形を川に流していく。一つ一つの人形が、逆らいようのない運命に翻弄される私たち人間の様に思えた。

「みそぎする ならの小川の河風に 祈りぞわたる 下に絶えじと」
つぶやいた定家の声に気づいた私は、声をかけた。
「八代女王の歌ですね。『古今六帖』の。」
「最近、父上に言われて『古今六帖』を暗記したんだ。『ならの小川』を見ていて、思い出した。」

「私の今の気持ちは、『後拾遺集』源頼綱の『夏山のならの葉そよぐ夕暮は今年も秋の心地こそすれ』という感じです。」

定家は風を感じるようにうっとりと目を閉じた。
「そうだ・・・。こんなに涼しいからもう秋みたいに思えるよ・・・。」
「でも、水無月の最後の日である、今日は、まだ暦の上では夏なのですね・・・。」

私たちは次々と流れてくる人形を、いつまでもいつまでもながめていた。



あれから二人で百首歌をいくつも詠んだり、歌合に参加したりして切磋琢磨した。和歌所の寄人や、『新古今集』の選者に選ばれて、かなりの時間を一緒に過ごして来た。
そして、お互いを歌人として尊敬し、認めて来た。

昔を覚えているか?定家。いや、覚えてなくても仕方あるまい。もう六十年近くも前の話だ。ただ、私はこの歌を詠みたいだけなのだ。

「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」



一月ほどたち、家隆は夏越の祓の歌が女御入内の屏風歌に採用された事を知った。

家隆は静かに微笑んで、それを知らせる文を文箱にしまった。


(終)

参考:『千人万首』「藤原家隆」、『平安時代史事典』「藤原家隆」「藤原定家」、『人物叢書 藤原定家』(吉川弘文館)、『今物語』(講談社学術文庫)

2008.6.15  葉つき みかん

<ミニストーリー>
寿永元年(一一八ニ)―高倉上皇や平相国清盛が没した次の年。
平家と源氏の合戦は一時小康状態を迎えていた。

自邸で庭に向かいながら、四十歳の讃岐は、一人静かに自分の歌を清書していた。

二十歳(はたち)の頃、二条帝に何度か御寵愛を受けた時に愛しそうに撫でられた白い豊かな頬は全く衰えておらず、薄暗い部屋の中でその面輪がぼんやりと光るように見える。その頬につややかな黒髪がほのかにかかり、陰影を形作っている。

父・源頼政と兄・仲綱が以仁王とともに平家に叛旗を翻し、宇治川で平家の大軍に簡単にひねりつぶされ、自害してから二年―

その頃、讃岐は今と同様、夫と小さな館を構えて暮らしていた。内裏女房をやめ、優しい夫と結婚し、二人の息子にも恵まれ、穏やかな幸せな生活をしていた。

父は謀反の計画を事前に讃岐には知らせていなかった。それは、五月二十二日、急に家を囲んだ平家の侍達によって知らされた。讃岐は何も分からず、泣きながら父と兄の無事を祈っていた。―しかし、十日後、二人が亡くなった事を知らされた。

女子は戦には無関係との事で何も咎めはなかった。

しかし、讃岐の中で何かが崩れてしまっていた。・・・ある日、「何か」とは、歌を詠もうと言う意欲だと気づいた。
はじめは、親兄弟をなくした悲しみのせいだと思っていた。しかし、半年、一年とたって、美しい桜や、朧月、夏草の景色を見ても、讃岐の中から何も言葉は出てこなかった。

―どうしてだろう?
今までは考えなくても自然に言葉があふれ出てきたのに?

讃岐は藁にもすがる思いで、自分が今まで詠んできた歌を書き写しはじめた。
幼い頃、父の手ほどきを受けて初めて詠んだ歌、二条天皇の内裏歌合での歌、歌林苑での歌会で詠んだ歌―

そして、歌合で詠んで大絶賛を受け、「沖の石の讃岐」という名をつけられた歌

「わが袖は 潮干(しおひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし」
を書き終わった、時―

父の温かい笑顔が讃岐の胸の中に広がってきた。

・・・そうだ。私の歌は、今まで全て父を喜ばせるために詠ってきたのだ。
今ではいくら歌を詠んでも、温かく笑って、見事な趣向だと手を叩いてくれる父はいない。
もっと上手い趣向を一緒に考えてくれる兄もいない。

そう、思い至った時、今まで何かにせき止められていたかのように胸の奥に詰まっていた感情が、目に、あふれてきた。

讃岐は文机に突っ伏して、一刻ほど泣いた。

そして、しゃんと背を伸ばして、まるで写経をするかの様に、一文字一文字、丁寧に自分の歌を清書し始めた。書くごとに、讃岐の悲しみが一つ一つ浄化されていくような気がした。

・・・父や兄が命を捨てて壊そうとした平家の世が終わるかどうかは分からない。
私には政治の事は余り分からないけれど―彼らはすべき事をした。決して無駄死にをしたわけではない。

そして、今の私にできる事は・・・父に教えられた歌の道を守り、より発展させていく。それしかできない。

讃岐は筆を硯に浸して、穂先を整え、また新しく一行を書きはじめた。

(終)


参考:『千人万首』「二条院讃岐」、『平安時代史事典』「讃岐」
2009.3.10  葉つき みかん

【ミニストーリー】
~兼実がこんなにひょうきんかどうかはわかりませんし(『玉葉』を読んでいないのでこのキャラ立ては全くの想像です。)、別当についてもわからないことが多いのですが、私が調べた限りのイメージと想像でお話を作っちゃいました♪また、いろいろ九条家について調べて、イメージが変わったら修正するかもしれません。~


「また、歌合に詠進していただけませんか」
三十三歳の右大臣・九条兼実は皇嘉門院の御所である九条北殿で尼姿の女房・別当に言った。

治承三年(1179)、平安時代末期、都では徳子所生の言仁親王が立太子されて平氏政権が頂点を迎えていた。しかし八月に内大臣・重盛が病で死去し、栄華にもかげりが見えはじめていた頃―

十月の冷たい雨の香りが邸内に漂ってくる。
皇嘉門院・藤原聖子は、保元元年(1156)、35歳の時、夫である崇徳院が保元の乱によって讃岐に流されたとき、髪を下ろした。
皇嘉門院は現在58歳。小柄で少女の様に可憐な様子で御簾の中に座っている。

その横で、同じ年頃の尼姿の女房が一人。それが別当である。
皇嘉門院よりは少し大柄で、知的な雰囲気をかもし出している。別当は女童の頃から女院に仕え、姉の様に、親友の様に女院を支えてきた。

御座所は出家の身にふさわしく、全体的に鈍色のしつらえで、上品な香の香りがしてくる。

兼実は、年の離れた異母姉であり、同時に自分の養母(=後見人)である女院の落ち着いた雰囲気が好きで、息抜きをしたいとき、自邸の九条南殿から隣の北殿まで、よく遊びに来ていた。

「神無月の雨ですか・・じめじめしていますね。まるで、私の気持ちのようです」
女院は小さな声でつぶやいた。
「何ゆえ?」

兼実は扇を口元に持って行き、いたずらっぽく言った。
「摂ろくの家に生まれながら、二十年も右大臣のままだったら、気も滅入りますよ。」

女院は袖で口を隠してうつむいた。
「後見人である私の力が無いばかりに・・・」

兼実は困ったように眉を下げた。
「女院のせいではありませんよ。今は時機が来ていないだけです」

兼実は扇を開き、顔の横に持って行き、流し目でふっと笑った。
「先頃、小松大臣がお亡くなりになって、平家の一枚岩も崩れてきたようですね。ようやく平家に距離を置いて耐えてきた私の苦労も報われるときが来ました。あとは熟した果実が私の手の上に落ちるのを受け取るのみ・・・」

「まぁ、また戦が起きるのかしら・・・」
女院の御座所から大きなため息が聞こえた。

兼実はこれ以上きな臭い話をして、女院の心を掻き乱してはまずいと思ったのか、大きな咳払いをして、明るい声で言った。
「それはそうと、また二年前の様に、歌合を開くつもりです。」

そして、別当の方に向き直った。
「それで、先ほど申し上げたように、別当殿に再び参加していただけないかと思いまして。」

別当は、二年前の歌合にも、去年の百首歌詠進にも参加しているので、大して驚きもせず、
「私ですか?それはよろしいですけれど・・・。今度の判者はどなたですの?」

「円熟の歌詠み、釈阿(しゃくあ:藤原俊成の出家後の名)殿です。」

別当は顔を傾けた。尼そぎの髪が軽く揺れた。
「ほぅ・・六条藤家の方ではないのですね。あの方の気に入るような歌が詠めるかしら。」

「期待していますよ。女院様の名を挙げるためにも、そして我が歌合が成功するためにも、是非いい歌を詠んで下さい。私も、今度の歌合には並々ならぬ気合を入れているのです。」

「どのように。」
女院に聞かれた兼実は、子供の様に頬を赤くして答えた。
「歴史に残る天徳内裏歌合に倣って、私自ら歌題を考えております。」

別当はころころと笑った。
「ま・・・右大臣様自ら・・・これは是非、勅撰集にでも載るような歌を作らねばなりませんわね・・・」


それから五日後―

自分の局で、別当は頭をひねっていた。

「旅宿に逢ふ恋、か―」

外から差し込む月光が、別当の影を長く見せている。
「恋歌は私の得意分野だけれど・・・さて、どう味付けをしましょうか・・」

(村上源氏の血を引きながら、曽祖父・源師忠が花園左大臣・有仁様の外祖父だったため、白河院に睨まれて以来、不振にあえぐ我が家。そんな私達を、歌が上手いからという理由で父の代から法性寺殿(藤原忠通・皇嘉門院の父)がとり立ててくれた。歌の家の面目のためにも、そして、私が勝ったら喜んでくださる女院様のためにも、何とかして勝ち星を一つでも多く挙げたい。)

「釈阿殿は古歌や源氏の物語をよく学んでおられると聞く・・・」

(何とか情趣を深くしたい・・・)

旅宿と言えば―

河の入口にゆらゆらと揺れる葦で作られた家・・・そんな不確かな物の上で暮らす不安定な境遇の遊女・・・行きずりの旅人との情事を、何日経っても忘れられず、途方に暮れる・・・

「遊女と言えば、難波の江口、難波という歌枕を使った古歌と言えば・・・有名なのが二首ある。」


「わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はんとぞ思ふ」(元良親王)
    
「難波潟 みじかき葦の ふしのまも 逢はで此の世を 過ぐしてよとや」(伊勢)

別当は目を閉じて、口の中で小さく何度もつぶやき、歌の調べを確かめた。

「難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき」


この後、この歌は釈阿(藤原俊成)によって、勅撰集である『千載集』に選ばれ、俊成の息子の定家によって「百人一首」にも選ばれました。
そして、地味な存在ながらも、千年後の私達に向かって、皇嘉門院と別当との心の絆を、語りかけているように思えます。

(終)


2007.2.20. 葉つき みかん

<ミニストーリー>

平家が壇ノ浦に滅んだ、翌年―文治二年(1186)―平安末期・京の都。

右大臣・藤原実定は夢の中で死んだ妻のぬくもりを感じた。
妻の顔は見えない。けれどもまとう雰囲気が四年前に死んだ妻そのものだった。

遠くでほととぎすの鳴き声が聞こえた。

「夢か・・・。」

実定はけだるげに瞼を開けて、寝床から身を起こした。初夏の生暖かい風が実定の横を通り抜けていく。

閑院流徳大寺家の当主である実定も、もう48歳。
若い頃は御所の女房達の目を釘付けにした美貌は、いまはいぶし銀の輝きに変わっている。
そこはかとなく上品な雰囲気が漂い、傍にいるものを落ち着かせるのは、実定の中を流れる高貴な血ゆえか。

実定と妻・上西門院備後が出会ったのは、橘の頃。今の一院であらせられる後白河法皇様が出家前の30代後半の頃、上皇様はよく同母姉君である上西門院様の元にいらっしゃった。

・・・というより上西門院様にお仕えになっている小弁の局(後の建春門院滋子)のもとに、と言った方が正しいかも知れぬ。

私は当時、権大納言を辞めていたが、今様をよくする縁で上皇様には取り立てていただいていた。
そして上皇様に供奉して、たびたび上西門院様の御所を訪れ、上西門院様の女房であった備後と出会った。

備後は橘の花の様に色が白く、気性が明るい女性だった。

「大丈夫ですわ。前大納言様ほどの方を朝廷がそのままにしておくはずはございません」

備後は明るく見開いた黒目がちの目をまっすぐ私に向けて言ってくれた。

「人々の印象に残る歌をたくさんお詠みになってくださいませ。実定様の存在が全く人々の記憶から消え去らないように。」

「私も折に触れて女院様のお耳に入れますわ。女院様は殊の外歌を好まれますから。きっと実定様に良い様に取り計らってくださいますでしょう。」

私が39の歳に大納言に復帰し、念願の大将となった時もわが事の様に喜んでくれた。2歳になったばかりの公継を抱いて、三人でささやかな祝いをした。

そうして私がようやくこれからというときに備後は病であっさり儚くなってしまった。


実定が単を肩に引きかけると、ほととぎすが橘の枝に留まり、また一声鳴いた。
枝が揺れ、橘の花のさわやかな香りが漂ってきた。

「五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする」

(ほととぎすよ。そなたも昔が恋しいのか・・・?)

その時、実定の胸に鈍い痛みが走った。もうこの一年ほどこの痛みに悩まされている。

(もう私は長くはない・・・もうすぐ備後のもとへ行けるのだな。)

実定は潤んだ目で有明の月をぼぅっと見た。月は二十日の有明の月。満月から少し欠けてはいるが、ふっくらとした丸みを帯びている。夜明けが近いのか、白っぽい色がかすかに光っている。

と、突然ほととぎすが橘の枝から飛び去った。

有明の月を横切って、小さくなっていく。

「一体どこへ行くのか・・・黄泉の国か?」

「なら、伝えて欲しい。まろもすぐに行くと。」

その呼びかけに応えるように、ほととぎすがまた一声鳴いた。だが、もうほととぎすの姿はなく、ただ有明の月だけが空に残っていた。

(終わり)


2007.6.4 葉つき みかん

<ミニストーリー>

天治元年(一一二四)、京。白河院の御所。
年の瀬も押し詰まり、雪がちらほらと舞い始めていた。
「うー・・・、寒い・・・」
七十歳の源俊頼は、束帯に首を埋めた。

手には、白河院から撰進を命じられ、先日完成させた勅撰集『金葉集』がしっかりと抱えられている。
(死んだ父・経信が果たせなかった勅撰集選者の夢・・・。とうとう私が果たす事が出来るのだ・・・!)

女房に、院への取次ぎを願うと、今現在、院は葉室顕頼殿と話されているという。顕頼殿は、「夜の関白」と言われた顕隆殿の御子息。御父上の顕隆ともども、院の御信頼を勝ち得ている。
(何か重要な政務の話をされているのだな・・・)

ふと、俊頼はすのこの端の方で寒さに震えながら、外を見ている少年を見つけた。
年の頃は、十二歳位。面長の顔に、厳しい表情が冷気に映えて、美しい。
寒さに震えながら、何かをつぶやいている。

俊頼は、低い声に耳を澄ましてみると・・・
少年は、和歌を詠んでいた。この雪を花びらに見立てて、歌を詠んでいるようだった。

(まるで、少年の頃の私の様だ・・・)
俊頼は、幼い頃、橘俊綱に育てられていた。俊綱は俊頼を可愛がったが、俊頼は、なぜ自分だけが養子に出されたのかと心の底で不満を持っていた。俊頼は大好きな実父の経信と一時でも長く一緒に居たくて、俊綱に許しを得ては、実家に帰っていた。
(あの頃は、篳篥を吹きまくったり、和歌を詠みまくったりしてその鬱憤を晴らしていたな・・・)

俊頼は、ふと親近感を覚えて、少年に話しかけた。
「歌が、好きなのかい?」
少年はふと顔を上げ、怪訝な顔をした。
「あなたは・・・?」
俊頼はその顔をどこかで見たような気がした。

すると、俊頼の背後から、院との話を終えた葉室顕頼の声が聞こえてきた。
「おお!前木工頭殿。お久しぶりですな。お待たせしてすいませんでした。」
俊頼は振り返って目を伏せた。
「はい。しばらく伊勢の斎宮様にお仕えしていたもので・・・」

顕頼は、俊頼の抱えていた包みにふと目を遣った。
「とうとう完成しましたか。次の勅撰集が・・・」
先ほどの少年が驚いて俊頼の包みを凝視した。
顕頼は、俊頼に向かって神妙に話しかけた。
「勅撰集のお名前をおうかがいしてよろしいですか・・・?」
俊頼は静かな声で答えた。
「金葉集と名づけました。」

俊頼は、それに続けて、
「そちらの方は?どこかであった事がある様な気がするのですが・・・」
顕頼は、笑いながらいった。
「それはそうでしょう。この者は、故・中納言俊忠殿の忘れ形見ですから。
俊忠殿は妹の夫だったので、その縁で私の養子となったのです。この者の母は私の妹ではないのですが・・・。」

俊頼は、それで、と納得が行った。
昨年若くして亡くなった、中納言・藤原俊忠は、俊頼の和歌仲間の内の一人で、俊頼が五十代の頃、しきりに一緒に歌会に参加しあった者だったからだ。

俊忠が開いた歌会で、「憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを」という会心の歌を詠んだ事もある。

「何と俊忠殿に似ておられることか・・・」
俊頼は目を細めて、少年を眺めた。少年は恥かしそうに目を伏せた。

「先日私が烏帽子親となり、元服させ、顕広と名づけました。」
顕頼は、にこやかに顕広に話しかけた。
「俊頼殿と歌の話は出来たかい?」
「いえ。お話ししようとしたら、父上が出てこられたので・・・」

顕頼は、俊頼に話すともなくつぶやいた。
「機会があったら話してやってください。
俊忠殿に似て、顕広は歌が好きだから・・・」

と、顕頼の従者が、急いでやって来た。
「殿!こちらに居られたのですか!決裁を待つ書類が溜まって困っていると、弁官の方が泣きついてこられて・・・」
「ああ、すぐ行く!」

「では」
顕頼は、俊頼に軽く会釈して、去っていった。顕広も、深々と御辞儀をして、従者の方へ歩いていった。

俊頼は顕広の後姿を見送りながら、考えていた。
(あの少年は、昨年、父上を亡くしたのか・・・。
私は四十代で父上を亡くしたときは、悲しくて淋しくて仕方がなかったが、あの少年はそれを十歳で経験したのか・・・。)
(そして実母の縁者でなく、父の他の妻の縁者の所に養子に行かされたとは・・・)

俊頼は大きなため息をついた。白い息が俊頼の視線を遮った。
「あの少年は幼い頃の私以上の苦労をしているのだな・・・」

俊頼は祈るようにつぶやいた。
「顕広殿。歌を作る努力を続けなさい。続ければ、歌壇の第一人者になれる。
勅撰集の撰者にもなれるかもしれない。
透き通るような悲しみを感じた者だけが、透き通るように美しい歌を詠める様になるのだ。」

俊頼の耳に、「院が入っていいとおっしゃっておいでです」という女房の声が聞こえた。
俊頼は御簾の中に入っていった。


それから六十四年後、文治四年(一一八八)、もとの名を藤原顕広といった藤原俊成は、後白河院の命により勅撰和歌集『千載和歌集』を撰んだ。
俊成は、俊頼に直接師事してはいないが、生涯心の中で、俊頼を歌の師と慕っていたそうである。

(終)

2010.12.31.  葉つき みかん  

<ミニストーリー>

平安時代も終わりに近づきつつある嘉承二年(一一〇七)、七月、京の都。

小二条殿では、大宰権帥・大江匡房が書物を紐解いていた。匡房は六十七歳。知的な雰囲気を漂わせてはいるが、長年政治の荒波をくぐりぬけて来た存在感が周りの空気を重たく感じさせている。

「先生!」
学問の弟子である藤原実兼が庭を小走りでかけてきた。軽やかな狩衣を風になびかせている。
実兼は二十三歳。藤原南家の学者・季綱の次男である。

匡房はふと目を上げた。

「主上(堀河帝)が・・・主上が崩御されました!」
「何と・・・。」
匡房の目は大きく見開かれ、一瞬息が止まった。
「私のこの三十年は一体何だったのだ・・・。」

そう言って匡房は大きく息を吐いた。
―この年になって期待をかけていた若者達に次々と先立たれるとは・・・。

白河院に対抗し、政道を正してくれるよう頼みにしていた堀河帝と関白・藤原師通殿、このお二人が相次いで世を去られた・・・。

匡房は頭を抱えた。
「・・・少し一人にしておいてくれ。」
「・・・どうか気を落とされませんよう。・・・私は内裏に行って様子を見て参ります。」

匡房は実兼の後姿を見送り、目をつぶった。
夏の熱気が年老いた体にこたえる。



「・・・中納言殿・・・中納言殿・・・」
遠くから師通の声が聞こえてくる。
ふと、目を開けると、匡房は、宴の真ん中にいた。

―これは、二十三年前の応徳元(一〇八四)年の春に内大臣・藤原師通様のお邸で開かれた宴。
匡房は数年前から師通の学問の師となり、頻繁に邸に通っていた。


奥には内大臣・藤原師通がにこやかな顔で座っていた。
「中納言殿、もっと酒を召されよ。」
師通は、御年二十三歳。現関白である藤原師実様と北の方、源麗子様の嫡男であらせられた。
ふっくらとした白い頬にきらきらと輝く意思の強そうな瞳。太い眉毛。
堂々とした体躯に練り絹の直衣をまとっている。

父上の師実様が、宇治関白・藤原頼通様のわき腹の子だという引け目からかどことなく暗い影を背負っているように見受けられるが、それとは対照的に父方の摂関家嫡流の血筋と、母方の村上源氏の由緒正しい血筋の誇りを生まれながらに身にまとい、対するものをどことなく畏怖させるほどの輝きを放っている。

そんな息子のような年齢の彼から親しげに話しかけられた匡房は、満面の笑みで酒を受けた。

師通はとても飲み込みの早い生徒で、一度教えた漢文の内容は全て理解し、理解できない所は矢継ぎ早に匡房に質問を浴びせる。そんな師通に匡房は持てる知識を全て注ぎ込もうと熱心に教えていた。
―匡房の心がこれほどはずむのは後三条天皇の東宮時代に学問をお教え申し上げていた頃以来であった。

宴でともに酒を酌み交わすのは、源経信など、匡房と同じく師通に古今の知識を教える博士に文人。
酒が入ると、誰からともなく詩や歌を詠みだす。

その内の一人が、春に相応しい題を出した。
「『遥かに山桜を望む』というのはいかがかな?」
「おお、それはなかなかよろしい。出来た人から詠む事としましょう。」

匡房は風景が頭に浮かび、さらさらと一気に筆を走らせた。
師通はそれに気づき、「中納言殿、もう出来ましたか?是非読みあげてください。」

「・・・それでは愚詠から、失礼いたします・・・」

「高砂の 尾の上(へ)の桜 咲きにけり 外山(とやま)の霞 立たずもあらなむ」

師通や場に集まった人々は、目を閉じて何度か匡房の歌を口ずさんだ・・・。
師通は優しい目で匡房を見て、「儒学だけでなく歌にも堪能でいらっしゃる。素晴らしい師を持つ事ができた私は幸せです・・・」


―あの頃は私の一番幸せな時代であった。
それから十五年後の承徳三年(一〇九九)、師通殿は三十八歳の若さで亡くなられた。

・・・そして今、白河院政に対抗しうる最後の御方であった堀河の帝も・・・。

ふと、目を開けると、実兼がとぼとぼとこちらの方に歩いてくる。
匡房は聞いた。「どうしたのじゃ?」
実兼が答えた。「主上の御葬儀の準備で内裏はおおわらわです。全く仕事になりませんでしたので、先生の御様子が心配で戻ってまいりました。」

「東宮はどうしておられる?東宮の傍におつきしなくていいのか?」
実兼は東宮・宗仁親王が産まれたときから近侍している。

「そう・・ですね。先生も大丈夫な御様子ですし、これから東宮御所に行って参ります。」

匡房は実兼の肩をつかんで、目を見つめた。
実兼は匡房が急に真剣な様子になったので、驚いた。

「実兼、そなただけにしか頼めないのじゃ。東宮(後の鳥羽帝)をしっかり補佐しておくれ。」
「師通殿、主上亡き後、この国の今後を頼めるのはそなたしかおらぬ。わしはそなたにこの国を支えるのに必要十分な知識を授けたはずじゃ。」
実兼は戸惑って、「まだまだ先生には壮健でいて頂いて、国政を支えていただかなくては・・・」
匡房は実兼の言葉をさえぎった。
「わしには分かっておる。わしの命は五年も持たない。この老人の頼みを遺言だと思って聞いておくれ・・・」

実兼は匡房の訴えたい事が分かった。

―匡房は時々学問の合間にこんな事をつぶやいていた。
「(白河)院は聡明な御方だが、情により政治を動かされる傾向がおありになる。最愛の皇女であらせられた郁芳門院様がお亡くなりになられてから、その傾向に拍車がかかっている様に思われる。・・・院が行われる熊野詣でや、造寺・造仏に使われる費用の増加も気がかりじゃ・・・」

匡房は実兼に、院の暴走を止める為に何か手立てを講じる事を期待している・・・。実兼は、しっかりと匡房の視線を受け止めて、うなづいた。
匡房は安らかな笑顔になり、脇息に寄りかかった。

―四年後の天永二年、匡房はこの世を去った。

匡房の死から一年後、実兼は一粒種の通憲(信西)を残して、蔵人所で頓死した。
・・・この後、匡房の理想を受け継ぐ通憲(信西)が実権を握るまで、四十五年の年月が必要であった・・・。


参考文献:『平安時代史事典』「大江匡房」、『人物叢書 大江匡房』(吉川弘文館)、「千人万首 大江匡房」

2009.4.29  葉つき みかん  

<ミニストーリー>

平安時代も後期にさしかかった、承暦二年(一〇七八)、九月。
六十三歳の参議・源経信(みなもとのつねのぶ)は、京の西の郊外を流れている桂川の西岸、梅津の里にある源師賢(みなもとのもろかた)の別荘を訪れていた。

初秋の梅津は川沿いから山荘の門前に至るまで田んぼが広がり、稲穂がたわわに実っていた。高い澄み切った空の下、何もかもが黄金色に輝いて見えた。

経信は門に入ろうとして、すっと後を振り向き、稲穂に反射する日光に目を細めた。
体格は中肉中背、容貌は風雅の世界に遊んで来たからか、日々の公務に疲れた印象は見えず、実際の年よりいくぶんは若く見える。豊かな頬には細かな皺が刻まれているが、それより黒水晶の様な知的な光を放つ大きな目が印象的だ。

経信は門の中に入ると、あるじの師賢が温かく出迎えた。
師賢は四十四歳の男盛り。細面の顔に、秀でた額、男らしい太い眉の下に、切れ長の黒い目が光っている。彼は歌人でもあり、経信の管弦仲間でもある。五年前の延久五年(一〇七三)、後三条院の住吉行幸の御船で、共に管弦の演奏を受け持ってから、経信と師賢達は親交を深めてきた。

師賢は、源資通(琵琶の名手で、経信の琵琶の師。『更級日記』で菅原孝標女と話した。)の息子。経信と師賢の先祖は、ともに敦実親王だ。経信の祖父・源重信と師賢の曽々祖父・源雅信(源倫子の父。藤原道長の舅)が敦実親王の息子達だったのだ。それだからか、二人は顔かたちが全く違うのに、身にまとう雰囲気に似通った物を持っていた。

経信が邸の奥に入ると、師賢の弟である政長が笛を吹きながら待っていた。政長も管弦・特に笛に堪能で、二人と同様、後三条院の住吉行幸で管弦を受け持った。

しばらくして、人数が集まったので、宴が始まり、女房達が酒や肴を運んで来た。

(今日の宴は、師賢が私を慰めるために開いてくれたものだ―)
経信はそう思っている。

そう、つい一月ほど前、経信は勅撰集『後拾遺和歌集』の撰者が、主上(白河天皇)の側近である若年の蔵人頭・藤原通俊に命じられたことを知り、どうしようもない絶望を感じていた。
経信は、若年であった後冷泉の帝の御代から、和歌・漢詩・管弦に堪能であるとの宮廷人の評判を得ていた。主上が企画された大堰川での行幸における遊びでも、経信が遅参した事で主上は機嫌を損ねたそうであるから、主上も自分の才能を認めてくださっていると思っていた。
だから、主上が、花山の帝が寛弘二年(一〇〇五)頃に完成させた『拾遺集』以降、しばらく絶えていた勅撰集編纂事業を始めるという話が具体化したとき、宮廷の人々も、経信自身も、経信が当然撰者に選ばれると思っていた。

経信は、自分が選者から外されたことで落胆すると同時に、撰者としての通俊の才能に危惧を抱き、これからの和歌の進む道がおかしな方向に行かないか、偏った感覚の歌ばかりがもてはやされやしないか、不安になっていた。

それは師賢も同じ思いだったようで、ある日内裏の廊下で会った際に、いつか自分の山荘でゆっくりお話がしたい・・・と経信を誘ったのだった。その時、経信は自分より二十歳近くも年下の友の気遣いと優しさに胸を熱くした。


―宴の場では、酒も進み、和やかな雰囲気になってきた。
風雅を解するものが集まり、酒が入ると、自然に歌の会となる。

いくつか題を出しているうちに日が落ちてきて、周りの景色が橙色に染まってきた。
次は、「田家ノ秋風」という題となった。ところが、いつもはすらすらと歌の出る経信、酒が回ってしまったのか、なかなか詠い出しが決まらない。

師賢は、微笑んで、「何かお弾きください」と琵琶を経信に渡した。
経信は、ゆるゆると琵琶を弾き出した。当代一の琵琶の名手である経信の見事な音色が山荘に響き渡った。

と、あの後三条院の住吉詣の時の様に、自然と師賢は拍子を取り、政長は笛を合わせはじめた。経信には、妙なる音色に誘われ、音楽の精が山荘に訪れたように思われた。

と、管弦の音の合間を縫って、さやさやと小柴垣の外の稲穂が揺れる音がして、すっと経信の頬を涼やかな風が通り過ぎていった。
ふっと経信の酔いが醒めた。
「夕されば…」

「夕(ゆふ)されば 門田(かどた)の稲葉(いなば) おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く」

「夕されば・・・」師賢と政長はゆっくりと味わう様に、同時にその歌を繰り返した。その間に、経信は歌を懐紙に書き付けた。

経信は、自分の歌の才能を改めて確信した。
『後拾遺集』が間違っていると感じたならば、自分の感覚に従って論難する文章を書いて発表すればいい。きっと宮廷の人々は私の意見を尊重してくれる。

経信は二人に満足そうな表情で話しかけた。
「さぁ、合奏を続けようか」

師賢と政長はゆっくりと微笑んだ。

―その後、藤原通俊は、『後拾遺集』を選ぶ際には、経信に内覧を願って意見を聞いた。
発表後に経信が『難後拾遺』を書いた後には、経信の考えに従って改訂版の『後拾遺集』を発表し直した。

(終)

参考文献:『平安時代史事典』「源経信」、「千人万首 源経信」

2010.3.1.  葉つき みかん

<ミニストーリー>
平安時代も後期に差し掛かる頃の、承保元年(一〇七四)の早春、奈良・大峰山を、白い行者装束の僧が駆け抜けていった。

年は二十歳頃、頭の上には笠、白の浄衣に袈裟をつけ、脛巾(はばき)を当て、草履を履き、錫杖と斧を携えている。時おり、堂の前に立ち止まり、数珠を押しもみながら真言をつぶやき、また走り始める。

僧の容貌は白いきめ細かい肌に上品な顔立ち、瞳は黒目がちで聡明な雰囲気を漂わせ、彼が高貴の出である事を物語っている。しかし昨年秋からの山篭りですっかり頬はこけ、体には凄絶な修行を行う者だけから発せられる鋭いエネルギーがみなぎっている。

彼の名は行尊。
参議・源基平の第三子で、母は、藤原隆家の孫娘。
十歳の時に父が亡くなってから、祖母の姉妹である麗景殿女御・藤原延子(後朱雀院女御)の猶子となり、庇護を受けた。
十二歳に三井寺で出家してから父の菩提を弔うため、仏道修行一筋に努めて来た。

十六歳になり、師・頼豪阿闍梨の後を慕い、熊野・大峰で山岳修行を始めた。
その頃、後三条天皇の第一皇女・一品宮聡子内親王のお話し相手として宮仕えをしている八歳年上の同母姉・基子が帝の御寵愛を受けているという噂を聞いた。

基子は懐妊し、延久二年(一〇七〇)、実仁親王を出産した。天皇はお喜びになり、二年後の延久二年(一〇七二)に今上の白河天皇に譲位する際に、実仁親王を皇太弟とした。

―世間は、後三条院は長年藤原摂関家に圧迫されていたため、白河天皇の次の御代には摂関家出身でない女性を母とする皇子を望んだのだ―と噂をしていたが、行尊には、後三条院は自分の体の変調に気づいておられて、姉の今後を心配して実仁親王を皇太弟に据えたのだと思われた。

そこまで姉に細やかな愛情を注いで下さる後三条院に感謝の気持ちを感じた。しかし、即位と同時に自身の子供を皇位につけることを父に否定された白河帝の気持ちはどれだけ傷ついておられることか、と行尊は甥の立坊を素直に喜ぶ事はできなかった。

果たして昨年の延久四年(一〇七二)、まだ四十代の後三条院は姉を残して崩御された。姉と聡子内親王はすぐさま出家した。
行尊たち一族には、三歳の皇太弟・実仁親王と産まれたばかりの乳飲み子・輔仁親王が残された。

院が崩御されたからといって、自分たち一族には全く希望の光が消えたという事はなかった。
兄・季宗が父代わりに自分たち兄弟と親王兄弟を守るために奔走してくれているし、後三条院の人柄を尊敬申し上げていた関白・藤原教通殿とご息女の小野皇太后・歓子様が親王達のご後見をしてくださっている。
今上帝は父帝のご遺言を守り、異母弟達を尊重しておられる。

しかし、行尊の心配したように、異母弟達を尊重される一方で、今上帝は中宮・賢子様との間に皇子を儲けようと熱心に中宮様をご寵愛されておられる。まだ皇子のご誕生はないけれど、中宮様との間で皇子がお生まれになれば、実仁親王様との摩擦は避けられない。

(―このままでは、実仁親王様は我が祖父・小一条院(敦明親王)の様に東宮辞退を強制されかねない―)
(そんな事態になった時に、私は出来るだけのお祈りをして、姉と実仁親王様たちをお守りしたい―)

「その為には強い法力をつけなくては―」

行尊は疲れで鈍ってきた足の動きに活を入れるように、また足早に走り出した。

この山での冬越えは辛かった。洞窟にこもって真言を唱えていても、凍るような冷気と寂しさに耐えかね、思わず洞窟の外に大声を出して走り出していきそうになった。ただ、外に出れば雪の中、遭難して死ぬ事は確実。実際、一緒に籠っていた法友が外に出て何日も帰ってこなかった事があった。他の僧達は、その者は死んだと噂していたが、十日後に帰ってきた。
行尊は嬉しさの余り、歌を詠んだ。だが、帰ってくる例はまれであり、実際は多くの僧が命を落としていた。

(ここで死んではいけない。死んでしまっては親王様をお守りする事はできない。―御仏よ、どうか私にもっと強い意志と法力をお与えください―)

ふと行尊の目の前に視界が開けた。
そこは岩肌ばかりの大峰の中にはまれな平地で、何本か山桜の樹が立っていた。
山桜は咲いている花はもちろん、つぼみのままの花まで無残にも早春の風に吹き散らされて、枝も折れて垂れ下がっていた。

―だがしかし、山桜は風に吹き散らされても誇り高く、白い花を咲かせていた。―

行尊はその姿に、庇護者を次々失いつつも、宮廷の隅で誇り高く生きている姉と親王たちを重ね、深い山の中でぼろぼろになりながらも自分を鍛錬し、何かをつかもうと努力する自分自身を重ねた。

そして思わず口から歌がこぼれ出てきた―
「もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人ぞなき」

(こんなちっぽけな私だけれども、山桜よ、どうか見守っていてくれ。)

行尊はしばらく桜を眺め、奥歯をぐっと噛み締め、また山の中に走って行った。

(終)

2009.11.7  葉つき みかん


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