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「小野雪見行幸(おののゆきみみゆき)」~小野皇太后・歓子と白河院~『今鏡』より 

マンガはこちらから→★★★

小野雪見行幸(おののゆきみみゆき)~小野皇太后・歓子と白河院~ シナリオ

平安時代末期に近づいた、寛治五年(1091)、極楽浄土への憧れから平等院鳳凰堂を作らせた藤原頼通がこの世を去ってから17年後。

院の御所に雪が降った。

先年、皇太子の善仁親王(堀河天皇)に天皇の位を譲った一院(白河上皇)は現在、三十九才。大きな瞳に力強い眉が印象的な美丈夫だ。

白河院が昼のおましから庭を見ながらつぶやいた。
白河「雪だ・・・。積もっておる。」
「『源氏』の浮舟が隠棲したという小野里も積もっておるかのう。」
随身・播磨信貞が前庭に控えながら問いかける。
「小野里とは・・・。比叡山麓のですか?」
白河「うむ。小野に出掛けるぞ、支度をせい。」

信貞は、支度するために車置に向かって歩きながら思いついた。
(もしかしたら小野皇太后の所に行かれるのかもしれない!突然ではご用意もできないだろう。知らせなければ!)

所変わって、比叡山麓・小野里。藤原歓子皇太后の御所にて・・・。

女房「一院の御随身である信貞様からの使者がいらっしゃいました」
小野皇太后「何のご用件かしら?お通しして!」

小野皇太后は七十一歳。老いたとは言えども清らかな雰囲気をまとい、美しい銀髪を尼そぎにしている。
黒目がちの視線でおっとりとこちらを見た様子は少女のよう。

庭にひざまずく使者は、取次ぎの女房に言った。
「皇太后様には御機嫌も麗しく・・・」
皇太后は、瞼を伏せて、外に聞こえるようによく通る声でおっしゃった。
「世捨て人の私に前置きはよろしい。用件を早くお言い。」
使者「はっ!では申し上げます。ただいま一院様が小野に向かって立たれたよし。もしかしたら院がこちらに寄られるかもしれません・・・」
皇太后は、大きな声を出した。
「まあ!院が!?」
そしてうろたえながらつぶやいた。
「ここは片田舎。気のきいたものは何もないわ。どうしよう。」
皇太后(でも、私は先々代の帝・後冷泉の皇后であり、三船の才で有名な四条大納言公任殿の孫、そして前・氏の長者である関白教通の三女。)
(彼らの名を汚さないためにも、みすぼらしいおもてなしはできない。)

(一体どうしたら・・・。そうだ!)

皇太后は、厳しい声で女房達に指図した。
「法華堂で三昧僧に経を読ませなさい。まるで極楽浄土に来たかと思えるように。」
「そして、庭には誰も出ないように。院がいらっしゃるまで決して足跡をつけてはなりません。」

皇太后は筆頭女房に聞いた。
「打出の衣は何具ある?」
女房「十具です。」
皇太后「ちょっと華やかさが足りないわね・・・」

皇太后は何かを思いつき、はさみを持った。


場面変わって、白河院の牛車は小野への山道を進んでいる。

車の中から、白河院が信貞を呼んだ。

白河院「小野里には、後冷泉天皇の皇后であらせられた、歓子様がおられるという・・・。」
信貞は、(そら来た!)と心の中で思いながら、笑顔を作って院に応えた。
「ああ・・・故関白教通殿のご息女の・・・諸芸に巧みであらせられる・・・。」
白河「きっと御前の雪も素晴らしかろう・・・。皇太后の御所へやってくれ。」
信貞「はっ!」


再び、皇太后御所―

皇太后はハサミで女房装束の背中を二つに切っている。女房達は皇太后の行為に唖然としている。
女房「何をなさっておられます!?」
皇太后「こうすれば、二倍の数の打出の袖を出せるわ。」

しばらくして―
女房達は全部で二十の袖を御簾の外に飾り付けた。
「ふぅ・・・やっと並べ終わった・・・。」
女房「でも・・・もし一院が中に入ってこられましたらどうしましょう。あまりに見苦しくはないでしょうか・・。」
皇太后「ほほ・・・大丈夫よ。」

外から、「一院の御到着でございます」との声が聞こえてきた。
院は、立派な牛車に随身を二人、警護の武士を二人、白丁を二人連れてきていた。
院は自ら牛車の御簾を上げた。

院の目に雪景色が映る。「おお・・・なんと美しい・・。」

皇太后の目に、白河の姿が映り、目に驚きが広がる。
白河のたたずまいは、亡くなった後冷泉帝にそっくりだった。

皇太后(あ・・・。一院は主上(後冷泉天皇)になんて似ておられるのかしら。・・・甥だからかしら?)

皇太后(意識が四十年前に引き戻される・・・)

歓子は父・教通の威光を背に、兄弟たちの期待を背負って帝に入内し、優しい帝に愛され、皇子を産んだが夭折して、泣き叫ぶ自分自身を思い出した。そしてそんな自分を温かく慰める帝も。
しかし、すぐに歓子は里下がりを強いられ、その間に、宇治関白頼通殿の息女である寛子殿が入内した。
帝は頼通の威勢を憚って寛子をすぐに皇后とした。歓子は傷心の余り、二十年ほど里邸や小野に籠っていた。

皇太后(治暦四年、主上は病に倒れられ、私を女御から皇后にする宣旨を発して息を引き取られた。)
(私への罪滅ぼしの様に・・・)
(私は主上と皇子の菩提を静かに弔おうと、髪を下ろした。そして、小野の邸を寺に改めて、読経三昧の日々を送ってきたのだわ。)

皇太后は雪を見て子供の様にはしゃぐ白河院を眺めた。
皇太后(皇子が無事に成長されていたら、一院くらいの御年かしら・・・。そして帝として世を統べていらっしゃったのかしら・・・)

突然皇太后は現実に戻り、幻想を振り払うかの様に、顔を振った。
(いえ、もうこんな繰り言はやめましょう。)
(今は一院に最高のおもてなしを提供する事に集中しなければ。)

皇太后「さ、そなたたち、しっかりお勤めしてくるのよ。」
かざみを着た可愛らしい女童二人、うなずく。

女童二人が何かを持って廂を歩いてくる。

一人は白銀の銚子に御酒を入れ、もう一人は白銀の打敷に黄金の杯を置いて、大柑子を肴としてお出しした。
お供の殿上人が取り次いで院に差し上げた。

それを御簾の後から見る皇太后と女房。
皇太后「まぁ・・・きれい・・・。まるで絵巻のようですね。」
女房「本当に・・・。」

ほろ酔いの白河院。「とても楽しかったと皇太后様にお伝えしておくれ。」
そして白河院一行は帰っていった。

皇太后はほっと手を胸に当てた。
(一院はご満足してお帰りになられたようだわ・・・)

先ほど心配した女房「一院は中をご覧にはなられませんでしたね。」
皇太后、ほっとしたようににっこり笑って、
「雪見に来た人は建物の中には入らないものよ。」

後日―

女房が皇太后に話している。
「一院が先日のお礼に、美濃の荘園を下さいました。こちらの御文を添えて・・」

皇太后が文に眼を通す。

白河院の文
「山里の住まいを誠にお気の毒な事と想像いたしておりましたが、打出の衣などまでめったにないほどたくさんご用意していらっしゃいましたね。
心憎いまでのおもてなしに、小野の雪を堪能いたしました。」

皇太后「まぁ・・・。」

皇太后(それより、私は一院のお顔を拝見したおかげで主上のお側にいた時を思い出すことができました・・・。)
(私はそれだけで満足でしたのに・・・)

皇太后「この荘園はあの気の利いた随身にあげましょうかね・・・」


それから十一年後の康和四年(1102)、歓子皇太后は八十二歳で息を引き取った。
―当代の知識人であった藤原宗忠は、日記に彼女の事を「賢女」と書き残している。―

(終)

2008.8.23.  葉つき みかん 


All rights reserved.


















『小右記』長和四年(1015)四月三日条マンガ「心喪装束」
水彩塗りは楽しい~。文様はPCでつけました。
素材は自作と、「綺陽堂」様のものを使わせて頂きました。
綺陽堂様→ http://kariginu.jp/sozai/

マンガ 『小右記』長和四年四月三日条_01cw

マンガ 『小右記』長和四年四月三日条_02cw

クリックすると拡大します。
『小右記』原文は、
「三日、壬子、右金吾如[女キ]御匣殿雖非服親、実可謂姓[姪女キ]如、承行祭事非無所恐、仍早旦招吉平朝臣、今[令]勘着服・除服日時<今日酉四點、坤方着服、六日乙卯々四點除服、陽明門末>、時刻出西門、少南進帯之、
資平為余子、仍非服親、然而実亦資平妹也、今日午四點着服、六月十二日除服、是同吉平所勘也、資平参内之日近、無吉日、僅無忌日相当神事、但三ケ月可令着心表[喪キ]装束、表衣外須用平絹下重・無文冠・青鈍表袴、然而頭蔵人可有用意、仍可用凌[綾キシ]冠・白表■[袴か]之由相示了、」
です。

「源氏見ざる歌よみは遺恨の事なり」



『源氏物語』Loverの歌人・歌学者である藤原俊成さんを描きました。寒い季節なので、桐火鉢をお抱えになりながら『源氏物語』を読んでいます。

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5000番を踏んでいただいた、ささらえさんからのリクエストです。

「信濃国伊那と申す山里に年へて住み侍りしかば、今はいづかたの音信もたえはてて、同じ世にありとも聞かればやなどおぼえし頃よみ侍りける」

われを世に ありやととはば 信濃なる いなとこたへよ 嶺の松風『李花集』

宗良親王

【通釈】
信濃国伊那=長野県大鹿村大河原 という山里に長年住んでおりました所、今はどのほうからの便りも絶え果てて、「生きているかどうか人に聞かれたい」などと思った頃に詠みました。
もし誰かが、私の事をまだ生きているのかと尋ねたら、信濃の伊那というところにいると・・・否々(いないな)、もはやこの世を去ったと答えてくれ、嶺の松風よ。

【語釈】いな:信濃の地名「伊那」と、「否」をかけている。

【解説】

詞書によりますと、この歌は宗良親王が、伊那に滞在していた時に詠まれたものです。

宗良親王が伊那へ行った時期は、1344(33歳)~1374(63歳)、1377(66歳)~1380(69歳)、最晩年の三回に分けてですが、この歌がいつ詠まれたのかは、私にははっきりわかりません。でも、所収の歌集「李花集」の成立が1374以降まもなくとなっておりますので、それ以前には詠まれていると考えたら、1344(33歳)~1374(63歳)の間でしょうか。その中でより範囲を絞ると、「いづかたの音信もたえはてて」より、長年歌友の北畠親房の死が1354年、交友を持っていた従兄弟二条為定の死が1360年なので、その付近だと推測することができます。従って、私はこの歌は宗良親王50歳頃に詠まれたと考えました。

望郷の念とそれをつきはなす強さがしみじみとつたわってくる名歌です。私は伊那にいるんだ・・!誰か気づいてくれ!・・と、望郷の念にさいなまれつつ、はたと我に返り、いやいやと頭を振って、私はもうこの世にはいない者だとして生きようと、割り切って、襟を正す様子が見えてくるようです。せつないなぁ・・・!

ただ人ならば、里の人と触れ合って、寂寥を慰められるのだけれど、南朝方の皇子であるばかりに、山里に身を隠して存在を見つけられないようにしなくてはならない・・寂しさは想像するに余りあります。都会が好きな私は、知り合いのいない山里に30年も住み続けることなどできません。親王も、南朝再興の目標がなければ、寂しさで狂ってしまいそうになった時もあったでしょう。華やかな都の生活をしっていると特にその思いは強くなったに違いありません。でも、この方は、この歌才を持ち、都にいては体験できなかった辛い事、苦しい事を体験し、美しい景色を見ていろいろな感情を感じたからこそ、絵空事、想像上の事ではなく人間の心にしみいる歌を詠めたのだと思います。

【略伝】
<基本データ>
*南北朝時代の南朝の皇子 *生没年:応長元(1311)~1389年以前 *通称:妙法院宮・信濃宮 *父:後醍醐天皇 *母:二条為世女・為子 *家集『李花集』


*歌の詠まれた年齢を考慮して、50がらみのおじさんになりました。意識したつもりはないのですが、少し後醍醐さんに似てしまいました(^_^;)鎧(腹巻)は構造を理解していないので、肩の辺りが少し変になってしまいました。ご容赦ください。背景は松林が描けなかったので、フリー写真素材 かもめ工房の写真を利用しました。渋い雰囲気を出そうと努力しましたが、成功しているかどうか・・・。

2003.5.30. 葉つき みかん

こちらの内容(データ部分)は、千人万首「宗良親王」をもとにさせていただきました。

*鎧の構造といい、南北朝に関しての理解といい、もっと改善の余地があるコンテンツだとは思います。きちんと勉強して描き直したいです。でも、だいぶ時間をかけて描きましたので、思い出深いです。

2013年06月24日慈円マンガ1 のコピー

(クリックすると拡大します)

保元元年に関白・藤原忠通の息子として生を受け、平安末期から鎌倉初期を駆け抜けたお坊様。

藤原(九条)兼実の同母弟の慈円様の、二十五歳の時のエピソードをふくらませて描いてみました。

この時の法名は、まだ道快様ですvv 参考文献:多賀宗隼『人物叢書 慈円』(吉川弘文館)

平安末期の管絃の大家・妙音院藤原師長(保元の乱で敗死した藤原頼長の子)と、彼の侍女で、後に師長の琵琶の弟子である藤原孝道と結婚して、孝時を産む、あやどのをイメージして描いてみました。

あやどのと師長c

クリックすると拡大します。

2013年02月08日少女紫式部 g2


クリックすると拡大します。

『紫式部集』の和歌から、少女時代の紫式部を漫画にしてみました(*^_^*)

参考サイトはこちら

文様は、綺陽堂様のものを使わせて頂きました!

霰(あられ)の降る夜に・・・(京極為兼4コマ)

霰の降る夜に… 京極為兼big

(クリックすると拡大します)


京極為兼の歌「閨(ねや)の上は 積もれる雪に 音もせで 横ぎる霰(あられ) 窓叩くなり」『玉葉和歌集』冬・1010 の歌から想像された情景を4コマ漫画にしてみました。
単なる歌の解説というかんじで、今回もオチがつけられませんでしたが(^_^;) 

久しぶりにアナログ線画で、描いている最中ずっと幸せでした☆☆左のナワアミもアナログ。描いている間は職人仕事をしているみたいで、夢中になっていました。

色々ソフトを試してみたけれど、やはりアナログ線画に戻ると思います。幸せ感が違いすぎる…!



平安時代末期・白河院と源師子との間に生まれた、覚法法親王(藤原忠通の異父兄)に仕えた舞人、狛則康について、平安時代史事典の記述を元にマンガ(風スライドショー)にしてみました(^ ^)狛則康は、三大楽書『教訓抄』を書いた狛近真の祖父の弟に当たります。

「台記」本文には、則康が暴れた際、「お前ら一族も俺の恩に預かっているだろう!」と叫んだらしく(参考ページ)、則康にも思うところはあったみたいなのです。その恩がどういうものなのか、気になります。調べて考えてみたいです。ですが、まだ「台記」本文には当たれていません。




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はじめまして、葉つき みかん と申します。
歴史が大好き、平安装束が大好きです。

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