『小右記』長和四年(1015)四月三日条マンガ「心喪装束」
水彩塗りは楽しい~。文様はPCでつけました。
素材は自作と、「綺陽堂」様のものを使わせて頂きました。
綺陽堂様→ http://kariginu.jp/sozai/

マンガ 『小右記』長和四年四月三日条_01cw

マンガ 『小右記』長和四年四月三日条_02cw

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『小右記』原文は、
「三日、壬子、右金吾如[女キ]御匣殿雖非服親、実可謂姓[姪女キ]如、承行祭事非無所恐、仍早旦招吉平朝臣、今[令]勘着服・除服日時<今日酉四點、坤方着服、六日乙卯々四點除服、陽明門末>、時刻出西門、少南進帯之、
資平為余子、仍非服親、然而実亦資平妹也、今日午四點着服、六月十二日除服、是同吉平所勘也、資平参内之日近、無吉日、僅無忌日相当神事、但三ケ月可令着心表[喪キ]装束、表衣外須用平絹下重・無文冠・青鈍表袴、然而頭蔵人可有用意、仍可用凌[綾キシ]冠・白表■[袴か]之由相示了、」
です。

「源氏見ざる歌よみは遺恨の事なり」



『源氏物語』Loverの歌人・歌学者である藤原俊成さんを描きました。寒い季節なので、桐火鉢をお抱えになりながら『源氏物語』を読んでいます。

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5000番を踏んでいただいた、ささらえさんからのリクエストです。

「信濃国伊那と申す山里に年へて住み侍りしかば、今はいづかたの音信もたえはてて、同じ世にありとも聞かればやなどおぼえし頃よみ侍りける」

われを世に ありやととはば 信濃なる いなとこたへよ 嶺の松風『李花集』

宗良親王

【通釈】
信濃国伊那=長野県大鹿村大河原 という山里に長年住んでおりました所、今はどのほうからの便りも絶え果てて、「生きているかどうか人に聞かれたい」などと思った頃に詠みました。
もし誰かが、私の事をまだ生きているのかと尋ねたら、信濃の伊那というところにいると・・・否々(いないな)、もはやこの世を去ったと答えてくれ、嶺の松風よ。

【語釈】いな:信濃の地名「伊那」と、「否」をかけている。

【解説】

詞書によりますと、この歌は宗良親王が、伊那に滞在していた時に詠まれたものです。

宗良親王が伊那へ行った時期は、1344(33歳)~1374(63歳)、1377(66歳)~1380(69歳)、最晩年の三回に分けてですが、この歌がいつ詠まれたのかは、私にははっきりわかりません。でも、所収の歌集「李花集」の成立が1374以降まもなくとなっておりますので、それ以前には詠まれていると考えたら、1344(33歳)~1374(63歳)の間でしょうか。その中でより範囲を絞ると、「いづかたの音信もたえはてて」より、長年歌友の北畠親房の死が1354年、交友を持っていた従兄弟二条為定の死が1360年なので、その付近だと推測することができます。従って、私はこの歌は宗良親王50歳頃に詠まれたと考えました。

望郷の念とそれをつきはなす強さがしみじみとつたわってくる名歌です。私は伊那にいるんだ・・!誰か気づいてくれ!・・と、望郷の念にさいなまれつつ、はたと我に返り、いやいやと頭を振って、私はもうこの世にはいない者だとして生きようと、割り切って、襟を正す様子が見えてくるようです。せつないなぁ・・・!

ただ人ならば、里の人と触れ合って、寂寥を慰められるのだけれど、南朝方の皇子であるばかりに、山里に身を隠して存在を見つけられないようにしなくてはならない・・寂しさは想像するに余りあります。都会が好きな私は、知り合いのいない山里に30年も住み続けることなどできません。親王も、南朝再興の目標がなければ、寂しさで狂ってしまいそうになった時もあったでしょう。華やかな都の生活をしっていると特にその思いは強くなったに違いありません。でも、この方は、この歌才を持ち、都にいては体験できなかった辛い事、苦しい事を体験し、美しい景色を見ていろいろな感情を感じたからこそ、絵空事、想像上の事ではなく人間の心にしみいる歌を詠めたのだと思います。

【略伝】
<基本データ>
*南北朝時代の南朝の皇子 *生没年:応長元(1311)~1389年以前 *通称:妙法院宮・信濃宮 *父:後醍醐天皇 *母:二条為世女・為子 *家集『李花集』


*歌の詠まれた年齢を考慮して、50がらみのおじさんになりました。意識したつもりはないのですが、少し後醍醐さんに似てしまいました(^_^;)鎧(腹巻)は構造を理解していないので、肩の辺りが少し変になってしまいました。ご容赦ください。背景は松林が描けなかったので、フリー写真素材 かもめ工房の写真を利用しました。渋い雰囲気を出そうと努力しましたが、成功しているかどうか・・・。

2003.5.30. 葉つき みかん

こちらの内容(データ部分)は、千人万首「宗良親王」をもとにさせていただきました。

*鎧の構造といい、南北朝に関しての理解といい、もっと改善の余地があるコンテンツだとは思います。きちんと勉強して描き直したいです。でも、だいぶ時間をかけて描きましたので、思い出深いです。

2013年06月24日慈円マンガ1 のコピー

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保元元年に関白・藤原忠通の息子として生を受け、平安末期から鎌倉初期を駆け抜けたお坊様。

藤原(九条)兼実の同母弟の慈円様の、二十五歳の時のエピソードをふくらませて描いてみました。

この時の法名は、まだ道快様ですvv 参考文献:多賀宗隼『人物叢書 慈円』(吉川弘文館)

平安末期の管絃の大家・妙音院藤原師長(保元の乱で敗死した藤原頼長の子)と、彼の侍女で、後に師長の琵琶の弟子である藤原孝道と結婚して、孝時を産む、あやどのをイメージして描いてみました。

あやどのと師長c

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2013年02月08日少女紫式部 g2


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『紫式部集』の和歌から、少女時代の紫式部を漫画にしてみました(*^_^*)

参考サイトはこちら

文様は、綺陽堂様のものを使わせて頂きました!

霰(あられ)の降る夜に・・・(京極為兼4コマ)

霰の降る夜に… 京極為兼big

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京極為兼の歌「閨(ねや)の上は 積もれる雪に 音もせで 横ぎる霰(あられ) 窓叩くなり」『玉葉和歌集』冬・1010 の歌から想像された情景を4コマ漫画にしてみました。
単なる歌の解説というかんじで、今回もオチがつけられませんでしたが(^_^;) 

久しぶりにアナログ線画で、描いている最中ずっと幸せでした☆☆左のナワアミもアナログ。描いている間は職人仕事をしているみたいで、夢中になっていました。

色々ソフトを試してみたけれど、やはりアナログ線画に戻ると思います。幸せ感が違いすぎる…!



平安時代末期・白河院と源師子との間に生まれた、覚法法親王(藤原忠通の異父兄)に仕えた舞人、狛則康について、平安時代史事典の記述を元にマンガ(風スライドショー)にしてみました(^ ^)狛則康は、三大楽書『教訓抄』を書いた狛近真の祖父の弟に当たります。

「台記」本文には、則康が暴れた際、「お前ら一族も俺の恩に預かっているだろう!」と叫んだらしく(参考ページ)、則康にも思うところはあったみたいなのです。その恩がどういうものなのか、気になります。調べて考えてみたいです。ですが、まだ「台記」本文には当たれていません。



鎌倉時代初期に、「舞曲の父、伎楽の母」と呼ばれた狛近真(こまのちかざね)が書いた『教訓抄』の中に、
狛近真が関わった少し興味深いエピソードがありましたので、4コママンガ2本で描いてみました。

狛近真ヤフー辞書の頁

狛近真ウィキペディアの頁

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狛の太子が夢説 1w

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狛の太子が夢説 2w

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