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百人一首

人物紹介

今鏡マンスリー(旧今鏡)ワンドロ

ニコニコ静画(マンガ)で、今まで私が描いたマンガをまとめて読めます。

なるべく正確な知識に基づいたイラストと文章を作成するよう心がけておりますが、どうしても史実や有識故実の間違いがでてきてしまうと思います。その際は、(できましたら出典も一緒に)掲示板か、メールにてお知らせ下さい。事実を確認した上で、適切に対処させていただこうと思います。

なお、ブログのコメント、トラックバックは受け付けない設定にしております。
記事へのコメント、HPの内容などの感想をいただける場合には、掲示板にお願いします。
掲示板には、こちらから。

「我が身にたどる姫君」をまとめてご覧になりたい方は、こちらの頁からどうぞ。

「我が身にたどる姫君」は、Kindleインディーズからも、kindle本の形で、無料で読むことが出来ます。
こちらから→ 『我が身にたどる姫君』~第一部~深雪姫世代 (6冊まとめ読み)(2020.5.7)


2016年1月23日 葉つき みかん

磐之媛 表紙

2020年7月~9月のお題は、後冷泉天皇皇后・藤原歓子。藤原教通と藤原公任女の間に生まれ、風雅を理解する才色兼備の女性でした。
コトバンクによる藤原歓子についての説明→★★★★


今鏡ワンドロ 4 妃とその子供編

「後一条天皇」 
第52回 中宮:「藤原威子」→ 子:「章子内親王」  「馨子内親王」 2018年10月~12月

「後朱雀天皇」
尚侍:藤原嬉子→子:「後冷泉天皇」

第53回 皇后:禎子内親王→子:「後三条天皇」 「良子内親王」斎宮 「娟子内親王」賀茂斎院 2019年1月~3月

第54回 中宮:嫄子女王」 →子「祐子内親王」 「バイ(示へん+某)子内親王」 2019年4月~6月

第55回 女御:「藤原延子」 →「正子内親王 2019年7月~9月

第56回 女御:「藤原生子」 2019年10月~12月

「後冷泉天皇」
第57回 中宮・章子内親王 2020年1月~3月

第58回 皇后・藤原寛子 2020年4月~6月

第59回 皇后・藤原歓子 2020年7月~9月

「後三条天皇」
第60回 藤原茂子(滋野井御息所) 子:貞仁親王(白河天皇)、聡子内親王、俊子内親王、佳子内親王、篤子内親王 2020年10月~12月

第61回 中宮・馨子内親王 2021年1月~3月

第62回 女御:源基子 子:実仁親王・輔仁親王  2021年4月~6月

第63回 女御:藤原昭子  2021年7月~9月


下線はお題にする予定の方々です。以下続きます・・・。

幼くして父母に死に別れ、若い頃には祖父の白河院に押さえつけられていたけれども、待賢門院と美福門院といういい女を妃にして、生を謳歌していた鳥羽天皇。そんな彼のイメージ画を描いていただきました。

鳥羽天皇

没年:保元1.7.2(1156.7.20)
生年:康和5.1.16(1103.2.24)
平安後期の天皇。堀河天皇と贈太政大臣藤原実季の娘苡子の子。
康和5(1103)年8月,堀河天皇の東宮となる。
嘉承2(1101)年,堀河天皇没により即位。
保安4(1123)年,子の顕仁(崇徳天皇)に譲位,白河上皇没後の大治4(1129)年院政を開始し,崇徳・近衛・後白河の3代28年にわたって朝政を主導した。永治1(1141)年,出家して法皇となり,法名空覚を名乗る。
天皇在位中は,祖父白河による院政の時期で,子の顕仁が,白河と待賢門院璋子との間の所生であると噂されるような状況のなか,やがて皇位継承の問題をめぐり,白河と対立を深めるようになる。
院政開始後,白河院政末期に萌芽のみられた荘園整理政策の事実上の凍結の姿勢をより明確にして,荘園の興隆を促進し,さらに,藤原忠実の政権再登用後,摂関家を院近臣として従属させるなど,独自の政策を推し進めた。
有力な院司として,藤原顕頼,藤原家成らがおり,また伊勢平氏を政権の基盤にとりこんだ。
崇徳天皇の譲位ののち,皇后美福門院得子との間の子体仁(近衛天皇)を即位させ,さらに近衛没後,雅仁(後白河天皇)を皇位につけ,崇徳上皇の反発を招いた。
これは,前代同様の皇位継承をめぐる皇統内部の対立であり,鳥羽没の直後,朝廷内を二分して争われた保元の乱(1156)の要因となるものであった。
信仰面では,御願寺の造営を盛んに行い,また熊野信仰に傾倒し,参詣は前後23回におよんだ。譲位後は鳥羽離宮を居所とし,同所に建てられた安楽寿院内の陵墓に葬られた。
院政主導の朝政および荘園公領制を確立させたという意味で,中世国家の基本秩序を完成させた天皇であったと評価できよう。
<参考文献>G87A1道雄「鳥羽院政論」(『日本歴史』425号)
(上杉和彦)

朝日日本歴史人物事典の解説
https://kotobank.jp/word/鳥羽天皇-105594

千人万首さんの記事はこちら。
引用「五十御賀過ぎて又の年の春、鳥羽殿桜盛りに、御前の花を御覧じてよませ給うける

心あらば匂ひを添へよ桜花のちの春をばいつか見るべき(千載1052)

【通釈】心があるなら、今年はいつもよりいっそう色美しく咲いてくれ、桜の花よ。このあと、再び春を見ることはありそうもないから。」

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tobain.html

うにぽちゃん @unipochan
ワンドロ=1時間キッカリで描いた鳥羽天皇です ^ω^)
#今鏡ワンドロ pic.twitter.com/J1ri6U5u4K
2015-08-22 00:06:05

廣田 @aif_0637
幼少期の鳥羽さんはほんとうにかわいらしいですね・・・
#今鏡ワンドロ pic.twitter.com/IPnNmKvIB5
2015-08-22 00:36:48

水無月理瀬 @mndk062
ワンデーどころかワンアワーにも満たないがっかりクオリティ+今鏡ネタ関係ない+そしてなによりまだ勉強不足でざっとしか知らない なのでお恥ずかしいのですが、フォロワーさん主催の今鏡ワンドロの本日のお題が鳥羽天皇だそうなので、描いてみました pic.twitter.com/onuHPT9dsb
2015-08-23 00:00:30



あおい @harukooo6v6
(さっきのブログを拝読しながら)やっぱ白河院ってウザキャラだよね…(違う)鳥羽帝と中宮璋子に早く息子が生まれますようにと凄い祈祷してそうだよね…
2015-08-19 08:22:55

あおい @harukooo6v6
母親の看病疲れで体調を崩す崇徳院が鳥羽院に「お母さんが危ないみたいです」と連絡して超特急で鳥羽院がやってくるなんて言う記述があるの…ありがとう…そんな記述が見られるの…台記…頼長…お前…やっぱ院政期の萌えを届けてくれる天使だ
2015-08-19 08:35:04

あおい @harukooo6v6
ううーん、こう、なんていったらいいんだろう、バランス調整が破綻を齎すということは、本当に平安末期って朝廷がきしんでいたんだなあ。旧来の勢力である摂関家、それに対抗する閑院流、そしてもう一度政の主導権を握りたい宮方
2015-08-19 08:55:35

あおい @harukooo6v6
やっぱ白河院デレクーウザキャラ(でれでれときどきクール
2015-08-19 09:19:09




白河天皇と最愛の妃・中宮賢子との間に生まれた「末代の賢王」堀河天皇。
管絃や和歌に造詣が深く、近臣に深く慕われていました。
今回はキッサン先生を初め、堀河天皇を描かれていた方々の掲載許可を頂けたので、喜び勇んでまとめさせていただきました!他にもまとめていいという方がいらっしゃいましたら遠慮無くお申し出くださいませ~。

堀河天皇

没年:嘉承2.7.19(1107.8.9)
生年:承暦3.7.9(1079.8.8)
平安後期の天皇。白河天皇と右大臣源顕房の娘賢子の子。諱は善仁。白河天皇の異母弟,皇太子実仁親王が応徳2(1085)年病没すると,父天皇の譲位で翌3年立太子と同時に即位。寛治3(1089)年元服。在位のまま病により崩ずる。在位期間22年。

幼少時の即位であったことから,父白河上皇が院政を行い政治の実権を握る状態ではあった。しかし,関白藤原師通や藤原通俊,さらには大江匡房らに補佐され,白河上皇との多少の摩擦はあったものの,安定した政治状況に至ったことから,後世になって末代の賢王とも称賛された。

中宮篤子内親王の影響もあって和歌を好み,自らも詠作する一方,源国信,藤原俊忠,源俊頼らの歌人たちを周辺に集め,文芸性を重視した堀河院歌壇と称されるものが形成され,『堀河院艶書合』『堀河院百首』などの後世に影響を残す斬新な試みがなされた。『金葉集』以下の勅撰集に9首の和歌が残る。

また音楽も好み,笛は源政長を,笙は豊原時元を,神楽は多資忠をそれぞれ師として学び,宮中で小規模な管絃(弦→絃に葉つき訂正)の会を繰り返し催した。その熱中ぶりは『教訓抄』『十訓抄』など数多くの説話集に逸話として残されている。

多くの臣下に敬慕され,その死は深く惜しまれたが,その崩御を悼んで描かれたのが『讃岐典侍日記』である。

<参考文献>橋本不美男『院政期の歌壇史研究』
(渡辺晴美)

朝日日本歴史人物事典
https://kotobank.jp/word/堀河天皇-134313

同じ御時后宮にて、花契遐年といへる心を、うへの男どもつかうまつりけるによませ給うける
千歳まで折りて見るべき桜花梢はるかに咲きそめにけり(千載611)
千人万首 堀河天皇より
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/horikawa.html



https://twitter.com/aif_0637/status/630382750890004480



「堀河天皇」にご参加アンドまとめを許可してくださった皆様、ありがとうございました。
たまたま新暦生誕日にワンドロを開催していておりましたことにびっくりしました。ご生誕おめでとうございます。

続きを見る


今鏡ワンドロ  1 天皇編

第一回「後一条天皇」2015年6月20日(土)

第二回「後朱雀天皇」2015年7月4日(土)

第三回「後冷泉天皇」2015年7月18日(土)

第四回「後三条天皇」2015年7月25日(土)

第五回「白河天皇」2015年8月1日(土)

第六回「堀河天皇」2015年8月8日(土)

第七回「鳥羽天皇」2015年8月22日(土)

第八回「崇徳天皇」2015年9月5日(土)

第九回「近衛天皇」2015年9月19日(土)

第十回「後白河天皇」2015年10月3日(土)

第十一回「二条天皇」「六条天皇」2015年10月17日(土)

第十二回「高倉天皇」2015年10月31日(土)

後朱雀天皇が父、三条天皇内親王・陽明門院禎子内親王を母として産まれた後三条天皇。長い東宮時代を経て、藤原摂関家との確執を乗り切って即位した帝。博識で剛毅で、そして白河天皇の父です。

後三条天皇

没年:延久5.5.7(1073.6.15)
生年:長元7.7.18(1034.9.3)
平安中期の天皇。名は尊仁。後朱雀天皇の東宮時代に三条天皇の皇女禎子内親王(陽明門院,母は藤原道長の娘妍子)を母として誕生。3歳で親王宣下を受け,父の死去で義兄の後冷泉天皇の即位にともない12歳のとき皇太弟となった。翌年に元服すると大納言藤原能信の養女茂子(実父は中納言藤原公成)を妃とし,ここに誕生したのがのちに院政を開始した白河天皇である。治暦4(1068)年,義兄の死去にともない即位,ときに35歳。24年におよぶ東宮の経験に加え,関白藤原教通と外戚関係がなかったことから親政をおし進めた。在位中の延久年間(1069~1074)に記録荘園券契所(記録所)を設置して荘園整理を推進し,宣旨枡という公定枡を制定し,秤量における不均衡を是正したことなど見るべきものがあった。特に荘園整理による摂関家の打撃は大きく,収公された荘園の多くは後三条天皇領となった。しかし在位5年足らずで第1皇子の白河天皇に譲位し,第2皇子の実仁親王(白河の異母弟)を東宮とした。譲位の理由として院政を行うためという説が早くからあるが(『愚管抄』ほか)決め手を欠き,病気と実仁親王の立太子とが原因という説が有力。半年後,病のため出家し(法名は金剛行),まもなく崩じた。遺骸は京外東の神楽岡で荼毘に付された。陵は京都市右京区竜安寺朱山の円宗寺陵。
(朧谷寿)
『朝日日本歴史人物事典』より
https://kotobank.jp/word/後三条天皇-64631







後三条天皇



院政を開始し、崇徳天皇の頃まで政治の実権を握っていた白河天皇。今まで政治の隅に追いやられていた受領階級を取り込み、政治を刷新しました。また、男女への寵愛が激しく、後々遺恨を残しました。

白河天皇

没年:大治4.7.7(1129.7.24)
生年:天喜1.6.19(1053.7.7)
平安後期の天皇で,譲位後も長く太上天皇として君臨し,いわゆる院政の伝統を創った。諱は貞仁。後三条天皇の第1皇子。

生母の藤原茂子は実父が藤原公成,養父が藤原能信で,摂関家の娘ではない。父後三条が即位した治暦4(1068)年の翌延久1(1069)年,皇太子に立てられる。さらに3年後の4年,父の譲位を受けて践祚した。

しかし,問題はこのとき異母弟の実仁親王が立太子したことにある。後三条の譲位の目的は実仁の立太子にあったと考えられ,この父の意思によって,白河天皇の子孫は皇位継承から除外される方向が明らかになった。白河の全人生は,かかる父の遺志に逆らい,自己の子孫の皇位継承を実現することに費やされる。

その途は父と実仁の死によって開かれた。応徳2(1085)年実仁が病死すると,翌応徳3(1086)年,白河は嫡子(堀河天皇)を皇太子に立てたその日に譲位を行った。緊張した異例の譲位であるが,それはなお有力な皇位継承候補者として,輔仁親王(実仁の同母弟)が存在していたためである。

白河の宿願は,康和5(1103)年堀河天皇に長男(鳥羽天皇)が誕生して,ようやく果たされた。白河はこの孫の鳥羽天皇の即位に引き続き,さらにその長男(崇徳天皇)も即位させて,ついに在世中に皇位継承は曾孫にまで至ることとなった。その執念の深さが窺われる。

保安1(1120)年,関白藤原忠実を勅勘に処した事件を起こすが,これは鳥羽天皇が忠実と連携して自立の動きをみせたためであるらしい。このように77年の生涯を通して,白河は皇位継承と子孫に対する支配を貫徹しようとした。この点に院政と呼ばれるものの本質があろうかと考えられる。

白河はよく専制君主と評価されているが,実際にはそのようにはみなし難い。愛憎の情は激しくとも,基本的に貴族と協調的であった。

「天下三不如意」や「雨水の禁獄」などの説話にも,その悪戯好きで冗談も口にする一面を読み取るべきであろう。<参考文献>河内祥輔「後三条・白河院政の一考察」(『都と鄙の中世史』)
(河内祥輔)
朝日日本歴史人物事典
https://kotobank.jp/word/白河天皇-80800




お忙しい中参加してくださった方々により、無事第三回も開催することが出来ました。摂関政治最盛期に生き、政治的には個性を発揮することは出来ませんでしたが、風雅に長じた優しいエピソードが残る後冷泉天皇さんにしばし思いを馳せていただけるとありがたいです。

後冷泉天皇

没年:治暦4.4.19(1068.5.22)
生年:万寿2.8.3(1025.8.28)
平安中期の天皇。名は親仁。後朱雀天皇の東宮時代に第1皇子として誕生したが,生母の藤原嬉子(道長の娘)は直後に他界。長元9(1036)年,12歳で親王宣下を受け,翌年東宮となり,寛徳2(1045)年,父の死で即位。道長の婚姻策成功により在位23年余,このため藤原頼通は摂関を半世紀も務めることになった。この天皇を最後に摂関の権力は弱体化の一途をたどった。父の発願による円乗寺は後冷泉天皇のとき落慶供養をみた。妃に章子内親王(後一条の皇女),寛子(頼通の娘),歓子(教通の娘)がいるが子に恵まれなかった。陵は京都市右京区竜安寺朱山の円教寺陵。
(朧谷寿)
コトバンク内『朝日日本歴史人物事典』の解説より。
https://kotobank.jp/word/後冷泉天皇-66902

えりかさんによる『平安夢柔話』さんの説明や
http://blog.goo.ne.jp/erika2672-t/e/f15a314824f0417326eacedcce79bb85

「千人万首」さんによる解説で、人物像も見えてきます。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/goreizei.html

紫式部の娘・大弐三位(藤原賢子)を乳母とするため、文学の素養があったのではないかと思います。


後冷泉天皇







「小野雪見行幸(おののゆきみみゆき)」~小野皇太后・歓子と白河院~『今鏡』より 

マンガはこちらから→★★★

小野雪見行幸(おののゆきみみゆき)~小野皇太后・歓子と白河院~ シナリオ

平安時代末期に近づいた、寛治五年(1091)、極楽浄土への憧れから平等院鳳凰堂を作らせた藤原頼通がこの世を去ってから17年後。

院の御所に雪が降った。

先年、皇太子の善仁親王(堀河天皇)に天皇の位を譲った一院(白河上皇)は現在、三十九才。大きな瞳に力強い眉が印象的な美丈夫だ。

白河院が昼のおましから庭を見ながらつぶやいた。
白河「雪だ・・・。積もっておる。」
「『源氏』の浮舟が隠棲したという小野里も積もっておるかのう。」
随身・播磨信貞が前庭に控えながら問いかける。
「小野里とは・・・。比叡山麓のですか?」
白河「うむ。小野に出掛けるぞ、支度をせい。」

信貞は、支度するために車置に向かって歩きながら思いついた。
(もしかしたら小野皇太后の所に行かれるのかもしれない!突然ではご用意もできないだろう。知らせなければ!)

所変わって、比叡山麓・小野里。藤原歓子皇太后の御所にて・・・。

女房「一院の御随身である信貞様からの使者がいらっしゃいました」
小野皇太后「何のご用件かしら?お通しして!」

小野皇太后は七十一歳。老いたとは言えども清らかな雰囲気をまとい、美しい銀髪を尼そぎにしている。
黒目がちの視線でおっとりとこちらを見た様子は少女のよう。

庭にひざまずく使者は、取次ぎの女房に言った。
「皇太后様には御機嫌も麗しく・・・」
皇太后は、瞼を伏せて、外に聞こえるようによく通る声でおっしゃった。
「世捨て人の私に前置きはよろしい。用件を早くお言い。」
使者「はっ!では申し上げます。ただいま一院様が小野に向かって立たれたよし。もしかしたら院がこちらに寄られるかもしれません・・・」
皇太后は、大きな声を出した。
「まあ!院が!?」
そしてうろたえながらつぶやいた。
「ここは片田舎。気のきいたものは何もないわ。どうしよう。」
皇太后(でも、私は先々代の帝・後冷泉の皇后であり、三船の才で有名な四条大納言公任殿の孫、そして前・氏の長者である関白教通の三女。)
(彼らの名を汚さないためにも、みすぼらしいおもてなしはできない。)

(一体どうしたら・・・。そうだ!)

皇太后は、厳しい声で女房達に指図した。
「法華堂で三昧僧に経を読ませなさい。まるで極楽浄土に来たかと思えるように。」
「そして、庭には誰も出ないように。院がいらっしゃるまで決して足跡をつけてはなりません。」

皇太后は筆頭女房に聞いた。
「打出の衣は何具ある?」
女房「十具です。」
皇太后「ちょっと華やかさが足りないわね・・・」

皇太后は何かを思いつき、はさみを持った。


場面変わって、白河院の牛車は小野への山道を進んでいる。

車の中から、白河院が信貞を呼んだ。

白河院「小野里には、後冷泉天皇の皇后であらせられた、歓子様がおられるという・・・。」
信貞は、(そら来た!)と心の中で思いながら、笑顔を作って院に応えた。
「ああ・・・故関白教通殿のご息女の・・・諸芸に巧みであらせられる・・・。」
白河「きっと御前の雪も素晴らしかろう・・・。皇太后の御所へやってくれ。」
信貞「はっ!」


再び、皇太后御所―

皇太后はハサミで女房装束の背中を二つに切っている。女房達は皇太后の行為に唖然としている。
女房「何をなさっておられます!?」
皇太后「こうすれば、二倍の数の打出の袖を出せるわ。」

しばらくして―
女房達は全部で二十の袖を御簾の外に飾り付けた。
「ふぅ・・・やっと並べ終わった・・・。」
女房「でも・・・もし一院が中に入ってこられましたらどうしましょう。あまりに見苦しくはないでしょうか・・。」
皇太后「ほほ・・・大丈夫よ。」

外から、「一院の御到着でございます」との声が聞こえてきた。
院は、立派な牛車に随身を二人、警護の武士を二人、白丁を二人連れてきていた。
院は自ら牛車の御簾を上げた。

院の目に雪景色が映る。「おお・・・なんと美しい・・。」

皇太后の目に、白河の姿が映り、目に驚きが広がる。
白河のたたずまいは、亡くなった後冷泉帝にそっくりだった。

皇太后(あ・・・。一院は主上(後冷泉天皇)になんて似ておられるのかしら。・・・甥だからかしら?)

皇太后(意識が四十年前に引き戻される・・・)

歓子は父・教通の威光を背に、兄弟たちの期待を背負って帝に入内し、優しい帝に愛され、皇子を産んだが夭折して、泣き叫ぶ自分自身を思い出した。そしてそんな自分を温かく慰める帝も。
しかし、すぐに歓子は里下がりを強いられ、その間に、宇治関白頼通殿の息女である寛子殿が入内した。
帝は頼通の威勢を憚って寛子をすぐに皇后とした。歓子は傷心の余り、二十年ほど里邸や小野に籠っていた。

皇太后(治暦四年、主上は病に倒れられ、私を女御から皇后にする宣旨を発して息を引き取られた。)
(私への罪滅ぼしの様に・・・)
(私は主上と皇子の菩提を静かに弔おうと、髪を下ろした。そして、小野の邸を寺に改めて、読経三昧の日々を送ってきたのだわ。)

皇太后は雪を見て子供の様にはしゃぐ白河院を眺めた。
皇太后(皇子が無事に成長されていたら、一院くらいの御年かしら・・・。そして帝として世を統べていらっしゃったのかしら・・・)

突然皇太后は現実に戻り、幻想を振り払うかの様に、顔を振った。
(いえ、もうこんな繰り言はやめましょう。)
(今は一院に最高のおもてなしを提供する事に集中しなければ。)

皇太后「さ、そなたたち、しっかりお勤めしてくるのよ。」
かざみを着た可愛らしい女童二人、うなずく。

女童二人が何かを持って廂を歩いてくる。

一人は白銀の銚子に御酒を入れ、もう一人は白銀の打敷に黄金の杯を置いて、大柑子を肴としてお出しした。
お供の殿上人が取り次いで院に差し上げた。

それを御簾の後から見る皇太后と女房。
皇太后「まぁ・・・きれい・・・。まるで絵巻のようですね。」
女房「本当に・・・。」

ほろ酔いの白河院。「とても楽しかったと皇太后様にお伝えしておくれ。」
そして白河院一行は帰っていった。

皇太后はほっと手を胸に当てた。
(一院はご満足してお帰りになられたようだわ・・・)

先ほど心配した女房「一院は中をご覧にはなられませんでしたね。」
皇太后、ほっとしたようににっこり笑って、
「雪見に来た人は建物の中には入らないものよ。」

後日―

女房が皇太后に話している。
「一院が先日のお礼に、美濃の荘園を下さいました。こちらの御文を添えて・・」

皇太后が文に眼を通す。

白河院の文
「山里の住まいを誠にお気の毒な事と想像いたしておりましたが、打出の衣などまでめったにないほどたくさんご用意していらっしゃいましたね。
心憎いまでのおもてなしに、小野の雪を堪能いたしました。」

皇太后「まぁ・・・。」

皇太后(それより、私は一院のお顔を拝見したおかげで主上のお側にいた時を思い出すことができました・・・。)
(私はそれだけで満足でしたのに・・・)

皇太后「この荘園はあの気の利いた随身にあげましょうかね・・・」


それから十一年後の康和四年(1102)、歓子皇太后は八十二歳で息を引き取った。
―当代の知識人であった藤原宗忠は、日記に彼女の事を「賢女」と書き残している。―

(終)

2008.8.23.  葉つき みかん 


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Author:葉つき みかん
はじめまして、葉つき みかん と申します。
歴史が大好き、平安装束が大好きです。

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